2026/11/02:断想3

ラカンの文体は自惚れの自意識過剰ではなくて、ほとんど声質みたいなものだと思う。それほどに身体化されている。他人に向かって「お前の声質は気に食わない」というのがひどい話であるのと同様に、ラカンの文体もまた、うっと思うかもしれないが慣れるしかない。ラカンは同じ内容をもっと明快に書くことはそもそもできなかったのではないかと半分真面目に思うが、そのことは、ラカンがその議題について明快な理解を持っていなかったことを意味しない。

虚偽罪というのは存在しないのか?仮に証言で嘘をついて有罪を免れていた人が、やっぱり嘘だったことが発覚し再逮捕される場合、当該の罪だけでなく、嘘をついたということで加算される罪はあるのだろうか?虚偽告訴罪(人に刑事・懲戒の処分を受けさせる目的で、虚偽の告訴・告発・その他の申告をした者に成立する犯罪)は存在するらしい。であれば、保身のためにつく嘘や、単に気まぐれでつく嘘に対してはないのか?詐欺罪もある。

シニフィアンは、他のシニフィアンとの関係においてのみ価値を持ち、それ自体では価値を持たない。しかし、シニフィアンの体系の全体は、他の体系とは関係を持たず、それ自体で成立している。シニフィアン体系の全体が有するこの自己措定の事実を意味するのが、ファルスというシニフィアン?

女性解放とはなにか。そもそも「女性」とは何であり、「解放」はいかなる事態を指すか。例えば女性の社会進出や、女性が従来男性によって独占されていた社会的地位や機能を担うことであるならば、そこでの「女性」は生物学的に女性身体(例えば乳房、女性器)を持つ人間個体を指し、「解放」は従来男性が担っていた機能と地位を担うことを指す。だとすると、妻が会社で働き夫が家事育児を行うようになった場合、女性は解放されたことになるか? つまり一般的なフェミニズムにおける「女性」は、生物学的女性であろう。「女性性」といったものは考えないことになる。が、女性性を構成する重要な要素は、生物学的女性身体から来る。妊娠や出産、授乳(とそれに伴う早期乳児期の育児)は女性身体に固有の生物学的機能であり、社会的に構築された「女性性」の核となる生物学的事実である。もし女性解放思想が前提とする「女性」が生物学的女性身体の主体を指しているのだとすれば、その思想は、女性の定義を生物学的女性身体に求めながら、それに「宿る」意識主体がその身体機能がもたらす不自由から離脱することを目的としていると言える。つまり、ここでは身体と精神が区別されており、女性解放の主体は女性身体そのものではなく、女性身体に宿った意識主体である。しかしその意識主体が解放の主体であるためには、それは女性身体に宿っていなければならない。女性解放の主体とは、女性身体に宿りながらもその身体機能に由来する運命に抗し続ける主体である。すなわちその主体は、自らの性についての問いを問う主体なのである。
そこから、精神分析的意味での「女性性」の承認へと方向づけられる。なぜなら心的女性性の発達に伴って、主体は自己の性の引き受けに関して試練を被るからである。女性とは、自己身体との関係の中で自己の性の引き受けという課題の前に立たされる主体であり、自己の性を問う主体だからである。その中で主体は男性性コンプレックスに傾きうる。しかし男性性コンプレックスに傾きうるのがつねに女性であるという事実は、その葛藤それ自体が女性的なものであるということも意味する。精神分析が探究する女性性とは、自らの性について問い、葛藤する性である。

たまに、何もやる気が起きない日がある。そういう日は、起きて机に向かう気がしない。それならベッドで何か読むのはどうか、あのテクストなら読む気になるか、音声朗読だけ流して聴いておくか、など。自分のやる気を刺激する選択肢はなにかを、順番に頭の中に思い浮かべてみる。それのどれをとってもしっくり来ないような日。

フィクションは嘘であるが、それに嘘の徴標はついていない。フィクションは、少なくとも建前としては、それが真実であるとして語られるのだが、そのことがフィクションの嘘性を支えている。しかし真理の探究はフィクションに満足しない。真理探究は、真実として語られる言明に満足することはなく、見かけ真実と区別される真相真実に到達しようとする。

同じことについて大体同じ内容を記述する際に、言語が違っても分量が大体同じくらいになるのは何故だろう?ある事象の記述に、極端に分量を多く費やす言語や、極端に少なく分量を費やす言語があっても良いのではないか?あるいは同じ言語でも、昔と現代とで、記述の量の違いはあるのだろうか?

目線が合うことと、目を見ることは厳密には異なる。目を見るとは普通、目線が合うことを言っているのであって、眼球を見ることではない。眼球を見る時には、片方の眼球を対象として見ることになる。眼球という対象は二つあるからだ。左右の眼球が近いから、両方に焦点を合わせることができるのだろうか?それとも左右の眼球をどんどん離していっても、「目線が合う」状態は維持されるのだろうか。また、一つの眼球と目線を合わせることはできるだろうか。

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