2026/10/27:断想1

今ではiphoneのメモ機能に考えたことを書くようになったので、ここに書き込むことも無くなった。去年の冬くらいから考えてメモしたことが貯まってきたので、ピックアップしてこちらにもコピペしておく。日付は無く、順序がある。



私的なことは公的(政治的)なこと、というのは、主観的なことは客観的なこと、というのと切り離せない。

「天才学生のジレンマ」:教師は生徒のレポートを評価する際、自分よりもはるかに高度な内容のレポートを適切に評価できない。そして仮に教師が「私は私の実力をはるかに上回るレポートについては適切に評価できない可能性があるので、それくらいの水準にある天才的な学生は、私の能力の水準に合わせてレポートを書いてください」と語ったとすればどうなるか?天才的学生は、教師のそのような告白をどのように受け止めるだろうか?つまり天才学生なら「誤って教師の理解水準を上回るものを提出して悪い点数をもらう」などということは(それでもいいと考えた場合を除いて)あり得ない。したがって、天才学生ならば「私が提出したレポートはあなたの理解水準をはるかに上回っているがゆえに不当な成績評価を受けた」という告発をしないことになる(それでも提出したのならば、不当な評価を受けても良いと考えたことになる)。つまりもしその学生が告発したら、その学生は天才ではなかったということの暴露になる。だから「俺は天才で俺の提出したレポートはお前の理解水準をはるかに上回っていたから、正当に評価されなかった!」という告発は、そもそも論理的にあり得なくなる(先生の応答:「もしあなたが天才だとして高い成績が欲しかったのなら、私の理解水準に合わせたものを提出したはずでは?」)。
→こう考えるだけでも、論文の査読がレポートの成績評価と本質的に異なることは明らかだ。査読は、自分の理解能力を超えた提出物の卓越性を何らかの仕方で掴まなければならず、そうした提出物こそが最も査読を通過すべき論文であるからだ。講義の成績評価は評価書の理解水準の範囲内で行って良いとしても、査読はその目的からして、査読者の手に負えないものをこそ世に問うという形で採択しなければならない。

研究に自分の人生とか実存とかがかかっていると、その分頑張れる反面、誤謬があったときの対応が困難になる。この主張に自分の人生賭けてますっていう人に反論するのは気が引ける。

ラカン研究については、前近代的というか「前現代」的というか、そういうカタいつまらない着実な研究をしたい。一種のバックラッシュだろう。日本古典や中国古典研究、聖書研究のカタさを参考にしたい。

レオ・シュトラウスが指摘した事だが、今日では、キリスト教世界の古典はその哲学的妥当性が信じられているのに対して、イスラム・ユダヤ世界の古典は単に歴史的関心の対象に過ぎないと見なされている。「カタい」研究への移行は、哲学的対象を歴史的関心の対象に引き下げる=引き上げることでもある。

正統派が過半数をとっており、その周囲に周縁的な「異端」コミュニティがいくつかある。それらの異端が正統派から批判されながらも、そこにはそれなりに豊かな研究の蓄積が存在し、そのコミュニティの内部で自足しうるだけの経済圏もできており、さらには正統派の中にも「異端」の主張にどこか共感している人々がいる、というような力関係が良いのだろう。

人と一緒にいて、自分の好きな音楽を流してる時に、その音楽怖いからヤダといわれると、急に突き放された感じがする。

誰にでも人権があるとか、平等だというのは、とにかくそうだと教えてこられただけで、なぜ人権があるのかということを教えてもらったわけではない。

人権は一つの「立場」として自らを相対化することができない。「私は人権を前提とする立場ですが…」という導入句は、それ自体が人権思想に反するからだ。これはたとえばキリスト教も同じで、「私は神の存在を信じている立場ですが…」という言明は、神が存在しない観点が(誤謬としてでなく)あり得るということを含意するので、禁じられている。
しかし人権思想家もキリスト信徒も、社交上の都合で、建前としてこの種の言明を行うことがあるだろう。だが彼らは本心においては、この言明が意味をなさないこと(なしてはならないこと)を知っている。そして、〔ここで途切れている〕

エクリが読めるならば、その内容を事柄に即しても十分に理解しているということである。ここに逆説がある。一見、事柄から遠く離れたレトリック上の技術が、事柄そのものの次元での深い理解と直結しているという逆説。→つまり「事柄の深い理解」とは、修辞を使って多様にその事柄を表現できるということなのだろうか?エリック・ポルジュによると、文体という概念は、同一の事柄(内容)を多様な形式で表現できるという前提の上に成り立つ(したがってこの考え方は、形式が異なれば表現している内容も実は違うのだと指摘する言語学によって批判された)。

日本人ほど奴隷道徳が似合う民族もそういないのに、日本でキリスト教がほとんど広まっていないのは不思議だ。

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