鬱病で会社にいけないから休むというのは、怪我や病気で会社に行けないというのとは違う(根底的には同じだが)。鬱病の場合はその「行けない」という受動性が、「行きたくない」という(非常に強い)否定的な意志と切り離せない。だが「行きたくない」から行かないというのは建前として認められないから、「行けない」ということにしている。
だいいち、親族を亡くした時の忌引きも、本来は「行けない」のではなく、喪に服す時間のほうが主体にとって会社よりもはるかに重要になり、いまは会社には「行きたくない」からであるはずだ。しかしこのネタバレは、建前上は言ってはならない。意志の自由と不自由をめぐる曖昧さが、このようにして覆い隠される。
→会社に行きたくないから休むというのは認められない、と会社は禁じてくる。だが「予言破り」のように、それを受け止めた上で、でも行きたくないから行かないというのはなお可能だ。これに対して、どんなに鬱病で動けないとしても、「さてその上で」動くことは原理上はなお可能であろうか?
つまり、会社に行くか行かないかは私の意志で決めたり行動したりすることができるが、会社に対する私の関心やその重要性が、私の中でどの程度のものであるかは私には操作不可能だ。鬱病や喪失によって会社が私にとってどうでも良くなってしまうことは、私には止められない。
会社に関心があるというのが行きたいとか行っても良いことと等しく、逆に関心がないというのが行きたくないということと等しいのだとすれば、行きたいか行きたくないかということもまた、私には操作不可能だったことにもなる。
セミネールの出版によって、『エクリ』がただの戯言ではないということが、必ずしも高度な水準に達していない読書にとっても把握することができるようになったという点はある。つまりセミネールの出版はエクリの価値を引き出すことを可能にした。エクリだけがあった時代よりも。つまりエクリの優位は、セミネールがなくても良いということではなく、セミネールの出版が徐々に証明してきたことでもある。我々の時代には、セミネールが出版されたことによって、以前の時代よりもさらに、エクリを読むことの価値が明らかなものとして目前に置かれることになった。
科学の精神。どんなに天才的で瞑想的な精神が生まれたとしても、それが科学的精神と結びついていなければ文明の発展にはつながらない。
理系と文系。科学と文化。人間の中にある、全能性の再獲得へ向かう力と、人間の有限性、現実の強固さを見つめる眼差し。その二つは人間個体の中に同居し、葛藤している。ユートピア的想像力と、マゾヒスティックな負け惜しみ的服従。親と子の関係。だから非対称である。
ラカンの名を出さずにラカンの理論を語れる人(語り直せる人)だけがラカンの思考を最も深く理解していると言える。なぜならラカンはラカンを読んで考えたわけではないから。
プレーンな意識や認識や志向が性化すると考えるより、まず性的な志向が存在し、それがなんらかの過程を経て脱性化されると考えるほうがうまくいく気がする(それは動物的意識から人間的意識への進化という見解に似ているが、そうではなく、きわめて人間的な性的な志向がまず存在する(?))。もちろんその場合、脱性化=昇華とはなにかという巨大な問いは残るが、性化とはなにかと考えるよりも実態に即しているのではないか。
シュレーバーが『回想録』を残せた奇跡は、彼の知性だけに帰せられるものではない。マカルピンが引用しているところによれば、この時代にはまだショック療法(現代ではさらに薬理療法)が普及していなかった。もしシュレーバーがもう少し後の時代の人物であれば、彼はショック療法を受け、自らの「回復の試み」のために『回想録』を書くことはなかったかもしれない。歴史のうねりの中で産み落とされる作品は、大気のうねりの間隙で生じる小さな美しいつむじ風のようなものだ。
小学生の頃、家の近くの交差点で、車通りがないにもかかわらず赤信号で待機するのが好きだった。車通りが少ないほどいっそう——待機の意義が空虚であればあるほど満足感は大きかった。信号無視をして渡っていく他人の側で、自らの不動がより際立つときには恍惚すら覚えた。
さまざまな人間の不幸や抑圧や苦しみについて、自分はそもそもそれが起こらないような条件を整備したいとは思えず、ただそれが起こった後で、苦しむ人をどうにかしたいと思う。条件の整備は、それを行う前と後とで、後の方がより良いとは思えないのだ。苦しむ人をどうにかすることは、条件の整備なのだろうか?苦しむ人が行くことのできる場所を整備することは、条件の整備であるか?
ラカンにおける「女性」と「父」はいつも似ているなと思う。どちらも「他者」であり、さらに言えばファルスだ。女性はファルスである存在で、男性がファルスを持つ存在であるとしたら、「父」はファルスである存在=女性になってしまわないか?男児も女児も、母親のファルスの欠如を発見して、母のファルスへと想像的に同一化することを試みる。ファルスへの同一化は同時に、母に欲望されたいということの試みでもある。しかしその後で父が登場すると、父は母の現前と不在を操作する法として現れる。この時期に同時に、男根期になる(現実的ファルスの目覚め)?この後、男児は母との愛の関係から父への同一化の試練があり、自我理想と超自我の形成がある。女児の場合は、去勢コンプレックスから父との陽性エディプス・コンプレックスに移行し、そのあとはそのままである。去勢の脅威は、男児にとってはそれが行われるかもしれないものとして現れ、女児にとってはすでに行われたものとして現れる?しかし女児もまた母との関係では、ファルスであることを試みているはず。女児の場合は、そこから現実的ファルスが撹乱して来ず、そのままファルスであり続けるのだろうか?その場合、父とのエディプスに移行するというのはどういうことなのだろうか?
大学の哲学系の「講読」形式は、論語孟子を読む古典的な講座や注疏、あるいは西洋から色々流入してきて生じた「解読」の方法(それも論語孟子の読み方の応用だろうか?)がハイブリッドしてできたのだろうか?
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