HASEGAWA, Tomotaro, 2020, Le symbolique, une structure plus profonde que la réalité et son apparition : la lecture deleuzienne du strcuturalisme: 東京大学教養学部フランス語・イタリア語部会「Résonances」編集委員会, 17–28 p.
長谷川さんのこの論文(cf. 9/29の記事https://shanazawa4.wordpress.com/2024/09/29/2024-9-29/)は、構造主義をめぐるフランス圏の未邦訳研究を広く紹介するものにもなっていると思う。長谷川さんはほかにも、Patrice Maniglierの著作の書評を行なってもいる。
この論文の最終的な眼目はドゥルーズにおける構造主義にあるのだが、その途上でラカンとレヴィ=ストロースにおける「象徴的なもの」の違いがはっきりと分析されている。主にセミネール2巻の内容、およびDescombesとScublaの研究が参照されて、その違いが①ラカンがレヴィ=ストロースと違って象徴的なものの自律性を認めていること、②ラカンはレヴィ=ストロースと違って想像的なもの、現実的なものを考えていること(象徴界、想像界、現実界のトリアーデを考えていること)、と整理される。
そして、ラカンが「象徴的なもの」の概念に関してこのようにレヴィ=ストロースから袂を分かっていったのは、何よりも彼が精神分析家であり、フロイトの再読と精神分析の基礎づけという目的から出発したからだ、と長谷川は論じている。ただこの点、Zafiropoulos(2003)は、もともとデュルケミアンだったラカンはレヴィ=ストロースを介してこそフロイトへ回帰したのだ、と主張している(Zafiropoulos, pp. 19-20)。ラカンにおける「フロイト」への準拠が、レヴィ=ストロースから離れる方向に働いたのか、それとも密接化する方向に働いたのか、という点で長谷川とZafiropoulosは対立するように思われる。
②の点に関して、レヴィ=ストロースが唯一ラカンの「攻撃性」論文を引いているところ(どうやら「友情」によって言及しただけらしいが)は、ラカンの想像的関係を言い表してもいる(cf. 9/8の記事https://shanazawa4.wordpress.com/2024/09/08/2024-9-8/)。
「Car c’est, à proprement parler, celui que nous appelons sain d’esprit qui s’aliène, puisqu’il consent à exister dans un monde définissable seulement par la relation de moi et d’autrui.」
「というのも、厳密に言えば、われわれが正気とよぶ人は、自らを疎外している人だからである。〔なぜ正気な人は自己疎外しているかというと、〕なぜなら、その人は自己と他者との関係によってのみ定義され得る世界に存在することに同意しているからである。」〔ここで原注6:ラカンの攻撃性論文〕」(序文、p. 12)
だからレヴィ=ストロースが「想像的なもの」の概念を全く使わないかというとそうでもないが、ただ全般的には確かに使っていない。また「象徴的なもの」についても、Scublaはレヴィ=ストロースの使う「象徴主義le Symbolisme」とラカンの使う「象徴的なものle symbolique」を分け、この用語法の違いが実は重要な両者の立場の違いにもなっているのだという議論をしている。しかし、レヴィ=ストロースも後年、「神話論理」の時期に入るとラカン的な意味での「象徴的なもの」という用語を使い始めるらしい。(Scubla, 2011, pp. 260-1)。cf, 10/9の記事https://shanazawa4.wordpress.com/2024/10/09/2024-10-9/
だから「象徴的なもの」においても、50年代のラカンとレヴィ=ストロースの間にはずれがある。そのずれがどこからくるのかというのに対して、フロイトのテクストの再読だ、というのは言えると思う。
花澤創一郎 への返信 コメントをキャンセル