2024/10/31

HASEGAWA, Tomotaro, 2020, Le symbolique, une structure plus profonde que la réalité et son apparition : la lecture deleuzienne du strcuturalisme: 東京大学教養学部フランス語・イタリア語部会「Résonances」編集委員会, 17–28 p.

長谷川さんのこの論文(cf. 9/29の記事https://shanazawa4.wordpress.com/2024/09/29/2024-9-29/)は、構造主義をめぐるフランス圏の未邦訳研究を広く紹介するものにもなっていると思う。長谷川さんはほかにも、Patrice Maniglierの著作の書評を行なってもいる。

この論文の最終的な眼目はドゥルーズにおける構造主義にあるのだが、その途上でラカンとレヴィ=ストロースにおける「象徴的なもの」の違いがはっきりと分析されている。主にセミネール2巻の内容、およびDescombesとScublaの研究が参照されて、その違いが①ラカンがレヴィ=ストロースと違って象徴的なものの自律性を認めていること、②ラカンはレヴィ=ストロースと違って想像的なもの、現実的なものを考えていること(象徴界、想像界、現実界のトリアーデを考えていること)、と整理される。

そして、ラカンが「象徴的なもの」の概念に関してこのようにレヴィ=ストロースから袂を分かっていったのは、何よりも彼が精神分析家であり、フロイトの再読と精神分析の基礎づけという目的から出発したからだ、と長谷川は論じている。ただこの点、Zafiropoulos(2003)は、もともとデュルケミアンだったラカンはレヴィ=ストロースを介してこそフロイトへ回帰したのだ、と主張している(Zafiropoulos, pp. 19-20)。ラカンにおける「フロイト」への準拠が、レヴィ=ストロースから離れる方向に働いたのか、それとも密接化する方向に働いたのか、という点で長谷川とZafiropoulosは対立するように思われる。

②の点に関して、レヴィ=ストロースが唯一ラカンの「攻撃性」論文を引いているところ(どうやら「友情」によって言及しただけらしいが)は、ラカンの想像的関係を言い表してもいる(cf. 9/8の記事https://shanazawa4.wordpress.com/2024/09/08/2024-9-8/)。

「Car c’est, à proprement parler, celui que nous appelons sain d’esprit qui s’aliène, puisqu’il consent à exister dans un monde définissable seulement par la relation de moi et d’autrui.」
「というのも、厳密に言えば、われわれが正気とよぶ人は、自らを疎外している人だからである。〔なぜ正気な人は自己疎外しているかというと、〕なぜなら、その人は自己と他者との関係によってのみ定義され得る世界に存在することに同意しているからである。」〔ここで原注6:ラカンの攻撃性論文〕」(序文、p. 12)

だからレヴィ=ストロースが「想像的なもの」の概念を全く使わないかというとそうでもないが、ただ全般的には確かに使っていない。また「象徴的なもの」についても、Scublaはレヴィ=ストロースの使う「象徴主義le Symbolisme」とラカンの使う「象徴的なものle symbolique」を分け、この用語法の違いが実は重要な両者の立場の違いにもなっているのだという議論をしている。しかし、レヴィ=ストロースも後年、「神話論理」の時期に入るとラカン的な意味での「象徴的なもの」という用語を使い始めるらしい。(Scubla, 2011, pp. 260-1)。cf, 10/9の記事https://shanazawa4.wordpress.com/2024/10/09/2024-10-9/

だから「象徴的なもの」においても、50年代のラカンとレヴィ=ストロースの間にはずれがある。そのずれがどこからくるのかというのに対して、フロイトのテクストの再読だ、というのは言えると思う。

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“2024/10/31”. への3件のフィードバック

  1. 長谷川 朋太郎 のアバター
    長谷川 朋太郎

    著者の長谷川です。私の論文を丁寧に読んでくださり本当にどうもありがとうございます。ザフィロプロスの本は恥ずかしながら積読だったので、読んでみたいと思います。

    象徴的なものが超越を再導入するものではないかという懸念は、レヴィ=ストロースにもあり(scublaの論文でも問題になってました)、それがゆえにレヴィ=ストロースは象徴的システムが複数存在し、それらが互いに変換=翻訳可能だという論点を持ち込みます。また若干ずれるかもですが、イポリットも似たような観点からラカンのことを批判しています。こうした超越をわざわざ導入せねばならなかった理由として、精神分析の営みの特異性があったのではと考えていますが、指摘してくださった通り、先行研究も踏まえつつ慎重に検討すべきところかと思います。

    長々失礼しました。ぜひ構造主義についてまた話す機会があったら嬉しいです!

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    1. 花澤創一郎 のアバター
      花澤創一郎

      コメントをありがとうございます。構造主義における数学的形式化がレヴィ=ストロースでは(というより、人文学を自然科学に劣らない厳密性を持った推測科学として精緻化するという当時の運動内では誰しもがそうでしたが)脱魔術化の傾向があったのに対してラカンが超越性の導入(だが単純な魔術とは異なる)を躊躇わなかった点に関して、精神分析の営みの特異性が肝であるというのは僕も同じように思います。このテーマで3月29日の日仏哲学会2025年春季大会で発表予定で、論文化までいければと思っています。

      この精神分析の営みの特異性とは、僕の見通しでは、主体の変容や倫理の問題です。それをフーコーが『主体の解釈学』で言っている仕方でいえば、ソクラテスの「自己への配慮」やキリスト教神秘主義の修道思想の伝統に精神分析が置かれうるということです。ラカンがはじめからキリスト教神秘主義への目配せを欠かさなかったことを考えれば、超越性の再導入によってレヴィ=ストロースから分岐するというよりも、最初から両者はもっと根本のところで違う価値観を持っていたのだとも思います。

      数学的形式化という方法論に関して両者は一時期、一致点を見ました。ラカンはその点ではほとんどレヴィ=ストロースを賞賛してやまないですが、1956年の二人のカンファレンスでは、formule canoniqueの使用を自制するレヴィ=ストロースに対してラカンはその熱狂を維持しているのが見てとれます。つまり構造主義の数学的形式化は、レヴィ=ストロースにとっては単なる客観的科学化の手段でしかなかったのですが、ラカンにとってはそれ以上のことを意味していたのではないかと思います。結局、ラカンはレヴィ=ストロースから受け取ったはずの数学的形式化をさらにラディカライズして、レヴィ=ストロース自身も黙り込んでしまうほどの「数秘術」的方面へそれを深化させていきます。つまり、数学的形式化はラカンにとってはどこまでも超越性の新しい形式でしかなく、「主体の変容」というより根底の地平では「科学」もまた主体のあり方の一種類でしかない、ということになるのではないかということです(cf. ラカンにおける科学と魔術の区別なさについてボルク=ヤコブセン、それからラカンにおける科学とパラノイアの関係)。

      以上のようなことを現在は考えていますが、これがさらにドゥルーズやマニグリエなどの後世代になるとどう解釈されていくのかということは改めて興味が湧いてきました。長谷川さんのご研究を媒介に学ばせていただきます。

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      1. 長谷川 朋太郎 のアバター
        長谷川 朋太郎

        お返事遅くなってしまって申し訳ありません。こちらも大変丁寧にお答えいただきありがとうございます。大変興味深いですし、ぜひお仕事読ませていただけたら嬉しく思います。

        自分としては、レヴィ=ストロースとラカンが、異なる仕方ではあるにせよ自らの「科学としての」営為を、象徴的なものという概念によって基礎づけようとしていたのではないかと考えていました。つまりラカンの場合だったら、そもそもしゃべっているうちに人が治るということはどのようにして可能であるのかと。レヴィ=ストロースには有名な象徴的効果の議論もありますし、なによりも人類学とはいかなる学問であるのか、その共通するところはいかに担保されるのかという問いに対して、言語を用いる人間の学、という答えを与えていたように思います。こうしたところを重要視した背景には、やはり私が構造主義というものに興味を持っており、その主要なモチベーションに自らの学の基礎づけというのがあるからだと思っているからです。言語学、人類学、精神分析には少なくともそれが当てはまるのではないかと。

        自分が読むことのできたラカンは極めて限定的な時期のラカンのそれですし、また花澤さんのお仕事など拝読しつつ色々と勉強できたらと思います。いまはフランスに住んでいますが、4月から日本に戻る予定ですので直接お話しする機会などありましたら嬉しく思います。

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