Fink, B. et al.(1996) Reading Seminars 1 and 2, p. 98~, Anne Dunand. Lacan and Levi-Straussを最後まで読んだ。
最後は少し長めの節。ラカンとレヴィ=ストロースの理論的・テクスト的な関係が概観される。まず、ラカンはレヴィ=ストロースの『親族の基本構造』が刊行される以前から人類学に関心を持っていた。犯罪学や「吹き込まれた手記」、家族複合などの初期ラカンの論文。そして、ラカンやレヴィ=ストロースがそれまでの精神分析や人類学の流れに対して象徴的なものの優位を打ち出したことがいかに画期的だったかが語られる。それまでのこれらの学問は、感情や情動に優位性を置いていたからである。
次に、ラカンが何度もレヴィ=ストロースに言及しているのに対し、レヴィ=ストロースがラカンに言及するのは一度だけである。それは「マルセル・モース著作集への序文」(モース『社会学と人類学』所収)の注でラカンの「精神分析における攻撃性」が言及される箇所である。少し詳しく見てみよう。
問題の箇所というのはモース『社会学と人類学』(有地ら訳)のp. 10-12にかけての部分である。まずレヴィ=ストロースは、入神状態のシャーマンや呪術師の精神状態を神経症者の精神状態と比較し得る、という。これに関してはさまざまに議論があったわけだが、例えば精神科医が入神状態のシャーマンを見て、これは神経症の行動形式ではない、と判断したり、あるいはそれらシャーマンや呪術師たちは特定の状況以外では常人とまったく変わらないわけであるから、これを神経症患者と同一視するのは適切でない、といった批判があるわけである。なお、レヴィ=ストロースはおよそ2年前に書かれた「呪術師とその呪術」においても、呪術師と神経症者を近づけて語っている。精神分析においては神経症者が分析家に向けて語り、患者自身が「消散(除反応)」を行うのに対して、呪術師の場合は治療対象の語りを呪術師が代理的に再演し、呪術師自身が消散を行うことで治療を行うとされる。また、精神分析家になるためには自分が精神分析を受けなけてばならないこと(訓練分析。いわば一度「神経症患者」になること)と、呪術師になる人物がしばしばかつて呪術を受けたことのある人物であることなどが比較される。呪術師と神経症者は、まったく同一ではないが、社会集団との関わりの中で似たような機能を持つとされるのである。
呪術師と神経症者の比較に関して、二つのアプローチがある。一方では、この両者にはまったく関係がないと考えるアプローチ。これはそれまでである。他方では、両者が同じタイプに属すると考える場合である。もし後者を選ぶ場合、レヴィ=ストロースによれば、「この病理学的症状との関連性は、偶然的なものとして、かつまた我々の住んでいる社会の特殊な条件の結果として考えればならない」(「序文」、p. 10)とされる。わかりにくい文章だが、おそらく、呪術師や神経症者が示す症状というのは、社会的に規定されたものと考えねばならないということであろう。
そして後者(両者は同じタイプに属する)においては、さらに二つの立場があり得る。一つには、精神疾患maladies mentalesは「本当は医学とは無関係であり、個人的な来歴や素質のゆえにその集団から部分的に脱落した個人にあらわれる社会学的影響とみなされるべきなのか」(p. 10-11)ということ。もう一つには、これはやはり医学的・病理的なものなのか、である。
このような場合分けを行ったにも関わらず、直後にレヴィストは「だが、われわれはこのような議論を始める必要はない」と断じる。そして、仮に精神障害の生理学的・生化学的な基礎が発見されたとしても、これを扱う社会的理論が無効になるわけではない、とされる。ここからがだんだん難しくなってくる。
「およそ文化なるものは象徴的システムの総体と考えられらるが、その第一層には、言語、婚姻制度、経済関係、芸術、科学、宗教が位置している。これらすべてのシステムが表現しようとしているものは身体的実在と社会的実在の一定の様相であり、なおいえば、これら二つの実在の間に保たれている関係であり、またこれらの象徴的システムそれ自体が互いにたいして保っている関係なのである。これらのシステムが総体的な充足、とりわけ均衡を保ったかたちで完成されないのは、まずなによりも、各システムにはそれぞれの機能のための固有の条件があるということに起因する。」(p. 11)
この記述を見る限り、レヴィ=ストロースにおいて、象徴的システムというのは複数ある。言語、婚姻制度、経済関係など。そしてこれらの象徴システムは①個人と社会の様相、②個人と社会の間の関係、③複数の象徴システムそれ自体の間の関係を、表現している。①と②はほぼ同じことと見做せても、③だけは水準が一つ異なるようにも思われるが、ともかく象徴的システムというのは、その内部での諸関係、そしてその外部システムとの諸関係を表現しているようだ。さらに、これらの象徴的システムは「総体的充足」を得ることがない、とも言われている。象徴的システムの充足とは何だろうか。
象徴的システムが充足を得て完成することができないのは、「固有の条件があるということに起因する」らしい。この条件とは、直後に言われているように、例えば歴史的な外的要素の侵入であったり、ある社会から別の社会への変化・発展などを意味している。「それゆえ、社会というものは〔…〕他の社会やその社会自身の発展における先行状態からの影響を免れがたい」(p. 11)。これはソシュールが『一般言語学講義』の中で行っていた、言語体系の性質にも当てはまる。例えば最も原初の状態の言語体系(つまり何らの先行状態からの影響もないような言語体系)というのは考えることができない。我々が考えることができるのは、つねに歴史的に規定された言語体系なのであるから、我々の分析もまた、現代の言語体系を対象として良いのだ、とソシュールは論じていた。
なるほど社会という象徴システムもまた同じようなものである。これに対して、「他の社会とまったく関係を持たず、しかもそれ自身の過去とも無関係であると想像される理論上の社会」を想定することができる。無時間的で、静止した、ユートピアのような社会。これについてレヴィストは次のようにいっている。
「〔そのような架空の社会〕においてさえ、その総体が、文化や文明を形作っている種々の象徴的システムは、やはり相互に還元することができないものなのであるから(あるシステムを他のシステムに翻訳することは、非合理的な価値という常数の導入を必要とする)、いかなる社会も全体的に何から何まで象徴的では決してないということになる。」(「序文」p. 11-12)
架空の無時間的社会にも複数の象徴システムが存在する。そしてそれらの諸システムは、相互に還元することはできない。ふむ。互いに関係しながらも区別されたシステムである、と。しかしここで「あるシステムを他のシステムに翻訳することは、非合理的な価値という常数の導入を必要とする」と言われているのはどういうことなのか?「あるシステムを他のシステムに翻訳する」とはそもそもどういうことか?例えば科学システムを経済システムに翻訳する、とか?その場合には、経済システム内部の要素では表現できないものが剰余として出てきて、これは「非合理的な価値という常数」によって表現されるのだろうか。このような複数のシステム間の翻訳不可能性ということが、社会が「全体的に何から何まで象徴的では決してない」ということを意味しているらしい。象徴的システムが充足を得て完成するということが、社会の隅々まで象徴化が行われるということであるとすれば、社会には常に非象徴的な部分が剰余として残っているのであり、それは内部の諸システム間の翻訳不可能性としても現れる、ということだろうか。
「あるいはより正確には、いかなる社会も、そのすべての成員に対して、しかも同程度に、一つの象徴的構造——これは正常な思考にとっては、社会生活の平面においてしか実現されない——の構築に充分に役立つ手段を提供することに成功した試しはない。なぜなら、端的に言えば我々が健康と称する精神は、自己と他人との関係によってのみ定義される世界の中に存在することを受容するものであるがゆえに、このような精神性がまさに錯乱に陥るのである。〔ここで原注6:ラカンの攻撃性論文〕」(p. 12)
「一つの象徴的構造の構築に十分に役立つ手段」とは何であるか。社会の成員が、「一つの象徴的構造」を構築するのか?それは具体的にはどんな場面か。正常な思考つまり健常者個人がその象徴的構造を実現するのは、社会生活の平面においてであるとも言われている。社会生活、例えば日常的な経済活動を通して象徴的構造を構築している、ということだろうか。このような「健康」な精神は、自己と他人との関係によって定義される世界に存在している。そのことを受容している。この部分フランス語を見てみる。
「Car c’est, à proprement parler, celui que nous appelons sain d’esprit qui s’aliène, puisqu’il consent à exister dans un monde définissable seulement par la relation de moi et d’autrui.」
「というのも、厳密に言えば、われわれが正気とよぶ人は、自らを疎外している人だからである。〔なぜ正気な人は自己疎外しているかというと、〕なぜなら、その人は自己と他者との関係によってのみ定義され得る世界に存在することに同意しているからである。」
社会がその成員に対して、象徴的構造を構築するのに十分なだけの手段を提供することがないことの理由は、「われわれが正気とよぶ人〔健常者〕は、自らを疎外している人だから」である。健常者の自己疎外こそが、社会の象徴化の完成を阻害するものになっているようだ。いや、あるいは仏語文の順序から言って、「正常な思考にとっては、〔象徴的構造は〕社会生活の平面においてしか実現されない」ということの理由説明だろうか?
そして、それとは別に、なぜ健常者が自己疎外の状態にあるかということの理由が、「その人は自己と他者との関係によってのみ定義され得る世界に存在することに同意しているから」である。上の有地らによる翻訳では、二つの理由説明が一緒くたにされていてわかりにくかった。この文の最後に、レヴィ=ストロースのラカンへの唯一の言及である「精神分析における攻撃性」論文を参照支持する注がついているのであるが、これはたんにラカンの鏡像段階論に似た議論(他者との関係の中で疎外される)が念頭に置かれていると考えれば良いだろう。ただ、「精神分析における攻撃性」論文もまたそれ自体として難しく、ちゃんと読んだことはない。
正常な個人は自己疎外することによって社会生活に参加している。これに対して、自己疎外しなかった者は、社会生活への適応を拒絶したことになり、精神障害の発病に至るということか。
もう少し先まで見てみよう。
「そこで、社会というものは、離散的な集群masses discrètesのみが高度に構造化されている一つの宇宙にも比すべきものである。それゆえに、あらゆる社会で、ある率の(この率は様々でありうる)ひとびとが、いうなればシステムのそとに、あるいは一つまたはそれ以上の相互に孤絶したシステムの間におかれることは避けられない。その人びとにたいして、集団というものは実行不可能なある種の妥協的行動形式を集合的場面においてとることを要求したり、心の中の動きをいつわって示すようにとか、あるいは両立しがたいものの総合を行なうようにとかいった要求を出したり、これらのことを強制しさえする。したがって、『病人』なるものは、外見上常軌を逸したあらゆる行動のなかに、その集団の状態を転写しているにすぎないのであり、その集団のもつあれやこれやの常数を表面化させているにすぎないのである。」(p. 12、訳の一部修正)
「離散的な集群masses discrètes」とは何のことか?それら「のみ」が高度に構造化されている、とはどういうことなのか。離散的というのは連続的の反対であろう。そして、なぜ「それゆえにdonc」、社会の中のあるパーセンテージの人々は、これらのシステムの外部に置かれることになってしまうのか。ともかく、社会というのは必然的にその離散的なマスmassesの外部に置かれる人々を作り出してしまうために、社会から見てその人々を「病人」と呼ぶ人をも作り出しているのだとされる。つまり「病気」の病理的形態がいかなるものであれ、それらは社会が必然的に陥る状態の写し(転写)なのである。最後の「その集団のもつあれやこれやの常数を表面化させているにすぎない」というところ、常数(定数)constantesは、先ほど見たあるシステムから別のシステムへ翻訳する際に生じる「非合理的な価値という常数」に相当すると考えられる。
まだわからない部分も多い。レヴィ=ストロースが具体的にどのようなイメージを持っているのかが掴みにくい。数学的に考えているということはわかるのだが、例えば数式として表現された具体例などが挙げられておらずひたすら抽象的に語られていくのでわかりにくい。
が、とにかくレヴィ=ストロースが、社会が完全に象徴化されるわけではないことを強調しているのは興味深い。モースの唱えた象徴主義は「集団の平面においてさえも容易に完成され得ないものなのである」(p. 15)。これはどういうことかというと、「個人心理は集団の反映ではないし、いわんやそれを小型化したものでもない」ということである。個人はロボットのように集団に動かされているわけではないし、集団もまた個人の思惑を超越して動いているものである。そこでレヴィ=ストロースが強調するのは、両者(個人と集団)の間には「補完関係complémentarité」があるということである。
Dunandに戻ると、今度はレヴィ=ストロースの「象徴的効果」(1949)に対するラカンの頻繁な言及について論じられている。その最初のものはラカンの「鏡像段階」論文においてである。ラカンの文章を一段落抜き出そう。
「じじつ、イマーゴについていえば、そのヴェールに覆われた顔がわれわれの日常経験や象徴的効果の半影〔薄明かり〕pénombreのなかで輪郭をあらわすのを見てとるというのはわれわれの特権ですし、——個人的特徴であれさらには弱点とか対象的投影であれ、要するに自己身体のイマーゴが幻覚や夢のなかで呈する鏡像的配置をわれわれが信用している以上、あるいは、鏡という装置の役割を心的現実、しかも異質なそれの現われる分身(double)の出現に認めている以上、鏡像image spéculaireは可視的世界monde visibleへの戸口であるようにみえます。」(エクリ1p. 127[E 95])
(Pour les imagos, en effet, dont c’est notre privilège que de voir se profiler, dans notre expérience quotidienne et la pénombre de l’efficacité symbolique, les visages voilés, —— l’image spéculaire semble être le seuil du monde visible, si nous nous fions à la disposition en miroir que présente dans l’hallucination et dans le rêve l’imago du corps propre, qu’il s’agisse de ses traits individuels, voire de ses infirmités ou de ses projections objectales, ou si nous remarquons le rôle de l’appareil du miroir dans les apparitions du double où se manifestent des réalités psychiques, d’ailleurs hétérogènes.)
これは、主体が自らの身体の全体性を外部のゲシュタルトから受け取る、ということが言われた後の段落である。それが精神分析用語としての「イマーゴ」に結びつけられている。シェママとヴァンデルメルシュによる『精神分析事典』によれば、
「C. G. ユングによって導入された(1911年)術語で,主体の無意識の中に固着し,それ以後の生活において主体のふるまいや他人にたいする彼の理解の仕方を方向づける、父(父のイマーゴ)や母(母のイマーゴ)といった表象をさすために用いられる。/イマーゴは間主体的関係において錬成され,現実との関係において変形されることがありうる。たとえば、強い父親のイマーゴが、現実の頼りない父親の代りに置かれうるのである。」(シェママ&ヴァンデルメルシュ『新版精神分析事典』、p. 26)
とある。鏡像段階論との関わりで言えば、主体が自身の身体の全体性を受け取るまさに相手が、イマーゴに当たるだろう。ラカンはイマーゴの顔が「ヴェールに覆われ」おり、それが日常経験や「象徴的効果」においてその輪郭を表してくるというが、どういうことだろうか。それが「われわれの特権」だというのは、精神分析の場においてこそその表れに立ち会うことができる、ということだろうか。後半部分もよくわからない。少し後の部分では次のようにも言われている。
「鏡像段階の機能はそれゆえわれわれにとって、生体とその現実との関係——あるいは人の言うように、内界(Inn-enwelt)と環界(Umwelt)との関係を打ち立てるという、イマーゴの機能の或る特殊な場合として明らかになります。」(エクリ1p. 129)
鏡像段階の機能は、イマーゴの機能の一つの特殊なケースである。そしてラカンによるとイマーゴの機能とは、ユクスキュルの概念を用いて「内界(Inn-enwelt)と環界(Umwelt)との関係を打ち立てる」と説明されている。ただ、ラカンによれば人間においては発達に従ってこの「内界から環界へという円環」は「破壊」されてしまう。動物においてはこれがちゃんと関係づけられている。だから動物は本能的に動くことで捕食や交尾などを行うことができる。そしてそのような行動や状態の変化を引き起こすのは、自分と同じ種の他の個体を視覚的に知覚することである。これに対して人間においては、「他者を視る」ことは重要な意義を持ちながらも、動物とは異なる経路を辿る。人間は本能によって活動するのではないが、しかしそれがないと生きていくことができないので、代わりに象徴的なものを用いて社会生活を営むのである。
いろいろ述べてきたが、結局、なぜそのことが「象徴的効果」と関係があるのかはよくわからないままである。なぜラカンはここでレヴィストロースの「象徴的効果」という言葉を用い、論文への参照まで行ったのだろうか?
Dunandは、まずレヴィ=ストロースとラカンとの間にある対立をおいている。レヴィ=ストロースの精神分析に対する批判というのは、「精神分析家はシャーマンのように手続きを進めるべきであって、患者が彼自身の文化の社会構造を再統合することを助けるべきなのであって、彼に個人神話individual mythを作らせることではない」(Fink, B. et al, p. 105)という点である。シャーマンがやっていることと精神分析が(現に)やっていることには違いがあり、しかもレヴィ=ストロースは分析家もシャーマンのようにやるべきだ、と考えている点である。つまり患者に語らせるのは社会構造を再統合・再統一させるような物語であって、個人神話ではない、ということである。
そして「鏡像段階」をはじめとして、「神経症者の個人神話」(1953)、「科学と真理」(1965)などのラカンのテクストは、そう言った批判に対するアンサーであるという。
Dunandによれば、「イマーゴ」というのは想像界と象徴界の連結点junctionである。なるほど確かに、上のラカンの文章はそのように読むことができるかもしれない。イマーゴとの関係によって、内界と環界の関係が、つまり人間の内的な世界と実際の現実世界との間のつながりができるわけである。そしてDunandは、この理論がラカンにおける最初の「幻想fantasy」の定式であると解釈している。
いまいち「神経症の個人神話」がレヴィ=ストロースの「象徴的効果」とどんな関係があるのかよくわからない。たしかパルミエも「神経症者の個人神話」の話をしていた。
「ラカンは、自分自身の解釈の裏づけとして、何回となくレヴィ=ストロースの論文を引用している。ここでそれらの引用の目録をつくるゆとりはない。ただ、そのいくつかを指摘しておく。『「盗まれた手紙」についてのゼミナール』は、二元的組織が惹き起こす諸問題にふれている。『神経症者の個人的神話』という講演において、ラカンは、そういう個人的神話を家族的布置と同一視しており、 レヴィ=ストロースの諸論文に見出されるような神話の概念を援用している。ラカンの初期の論文のーつ、『鏡像段階』は、イマゴーの役割と結びついた象徴的効果の重要性を力説していた。」(パルミエ、岸田訳、p. 213-4)
ねずみ男症例の読解を通じて、彼の家族的布置を個人神話と同一視しているようだ。そこで用いられている「神話」というのがレヴィ=ストロース由来のものであるらしい。そしてここでも「鏡像段階」が挙げられている。イマーゴの役割と結びついた象徴的効果。どういうことか。
2024/9/10 – shanazawa.com への返信 コメントをキャンセル