Fink, B. et al.(1996) Reading Seminars 1 and 2, p. 98~, Anne Dunand. Lacan and Levi-Straussの検討の続き。
「鏡像段階」や「神経症者の個人神話」が、レヴィ=ストロースの批判に対するラカンの回答だとするDunand。だが詳しいロジックはわからないことが多い。しかしとりあえずDunandの解釈を見る。
Dunandが言うには、「彼〔ラカン〕は我々に次のように推測させてくれる。すなわち、シャーマンの治療においては、想像的対象に対する、シニフィアンを用いた操作operationがある、と」(Fink, B. et al, p. 105)。イマーゴの役割が(詳細はよくわからないが)想像界と象徴界との連結点になっていた、ということと関連しそうである。では、鏡像段階で想像的段階から象徴的段階へ移行する際に、シャーマンの治療にも類似した「象徴的効果」があるということなのだろうか?あるいは、シニフィアンを用いた呪術的治療とは、鏡像段階のいわばやり直しのようなものなのだろうか。
そして人類学と精神分析の違いに関してだと思うが、Dunandによれば、分析家の仕事は主体を集団の信念へと戻すためにシニフィアンを用いるのではなく(おそらくそれはシャーマンの仕事である)、むしろ「〔主体と集団の間に〕ギャップを作ることto produce a gap」である。
次に『エクリ』に収録された1965年の論文「科学と真理」が少し扱われる。
「科学と真理」の内容に関して語れるだけの器量はないが、レヴィ=ストロースへの言及が特に多い論文である。だがレヴィ=ストロースだけでなく他の言語学者や哲学者の名前がよく出てくる。あとは「フロイト的物」や「排除」に関してなど、50年代にラカンが行った議論が再び登場してもいる。Dunandが取り上げるのはその中でも「魔術」に関するラカンの発言である。まずラカンの記述をいくつか。
「魔術については、私の科学への服従にぼかしを残さないで、構造主義者の説明によって満足するような見方から出発します。それは、記号表現〔シニフィアン〕に対してありのままに答える記号表現を想定しています。自然のなかの記号表現は、呪文の記号表現によって呼び出されます。それは隠喩的に呼びかけられます。<もの>は、それが話すかぎりにおいて、われわれの糾弾に答えています。」(エクリ3、p. 410, E 870-1)
「私はみなさんの耳を引きとめるように、二点について結論を述べておきます。魔術は、結果を生じさせる原因の相のもとにおける原因としての真理です。/知は、そこにおいて、たんに科学の主体に対して覆われたままであることによってその特徴を示すのみならず、作業の口伝においても、その行為においても、それとして身を隠していることによってその特徴を示しています。これが魔術の条件です。」(エクリ3、p. 411, E 871)
人類学では魔術(呪術)をどう考えるかという伝統があり、マリノフスキーがすでに詳細な分析を行っているが(クラ)、それがモース、レヴィ=ストロースへと受け継がれている。レヴィ=ストロースにおいて魔術は、共同体を再統合する行為である。それがラカンにおいては、「<もの>が話す」とか「原因」などの主題でより複雑に表現されている。Dunandがどこをどう解釈したのかよくわからないのだが、呪術的行為に携わる主体は「大文字の他者から自身のメッセージをひっくり返った形で受け取る」(Fink, B. et al, p. 105)と言われ(これはラカンが初めの方から繰り返し語ったパロールの定式である)、呪術的主体はパロールの主体と同一視されている。そして、レヴィスロトースが脇に置いてしまったのは「主体」であると解している。ただ、「科学と真理」に関する記述があまりにも簡潔なので、なぜそのような結論になるのかがよくわからない。
ただ読解するだけでなく、先行研究は批判的な視点で読むことも大事だ。
次いでセミネール第2巻に入る。まずは丁半ゲームの議論の中で「慣性inertia」が問題になる部分。
「もちろんそうです。しかし初歩から出発しましょう。主体と機械を勝負させることができるということだけで、十分示唆的です。だからといって、機械が私のものの見方の理由を見つけることができるという意味ではありません。我々が個人的に口に出すことは『アェネイス』の詩ほどにも長くなってしまうでしょうが、だとしてもそういう詩が私の人生のすべての意味を伝えるわけではないと言いました。もし仮に我々がすでに韻を見つけたとしたら、我々は「象徴的効果」を目の前にしていると思って間違いないでしょう。レヴィ=ストロースが使ったこの「象徴的効果」という用語を、私はここで機械に対して使います。「象徴的効果」は人間にのみ帰すべきものと考えることができるでしょうか。ここで我々が語っていることはすべてそのことを疑問に付します。ちなみにこの問いは、ランガージュがいかに生まれるかが解らなければ解決できないでしょう。もっとも、そういうことは、差し当たって知る由もないと諦めるべきですが。/この象徴的効果に直面して、今日は、ある種の象徴的『慣性』、主体の、無意識の主体の特徴である象徴的慣性をはっきりさせることが問題です。」(S2下巻p25[S2 223])
ラカンは「象徴的効果」が人間だけでなく機械にも用いることができるという。しかも「もし仮に我々がすでに韻を見つけたとしたら、我々は「象徴的効果」を目の前にしていると思って間違いないでしょう」と言われていることからも、象徴的効果はここで、一見ランダムに見えるものの中に潜むある種のパターン性のことに用いられている。それは象徴的に構造化されている、とも言い換えられるだろうか。だから確率論的ではあっても、完全なランダムではない。そして無意識の主体にもそのような象徴的なパターンがあるのだ、とされ、これは象徴的「慣性inertia」とも言われる。
Dunandがまとめるには、「主体が自由連想を行う時、その主体は自らの象徴的慣性を表しているのである」(Fink, B. et al, p. 105)。そういえば、「鏡像段階」論文でも「inertie」という言葉が出てきていた。
「こうした点に対してわれわれの経験はことごとく対立しますが、それというのも、われわれの経験では自我が知覚-意識系に中心をおいているとか、認識の弁証法とは正反対の科学主義的偏見を定式化している<現実原則>によって組織されているとかというふうには考えないからで、——逆にわれわれはアンナ・フロイト女史があれほど緊密に構成した全構造のなかで自我を特徴づける無視の機能(fonction de meconnaissance)から出発するよう指示されるわけです。なぜなら、もし否定 (Verneinung)が自我の明白な形態を表わすとすれば、イドのあらわれる運命の平面を照らすような光によってでも解明されぬかぎり、その効果は大部分が潜在的なままとどまることになるからです。/わたしの形成に特有なあの無動性(inertie)はこのように理解されるのですが、そこにおいて神経症のもっとも広い定義をみることができます。すなわち、主体が状況にとりこまれるということが狂気のもっとも一般的な定式であり、これは癲狂院の壁のあいだにひそむ狂気でも、大地を騒音と噴怒で包んでしまう狂気でも同じです。」(エクリ1、p. 132, E 99)
「わたしje〔この論文ではegoのこと〕」を形成するのには「無動性(慣性)inertie」が必要である。だがjeの形成にはimagoも必要である。それはつまり、想像的段階から象徴的段階へと移行が行われる際にある種の「慣性inertie」が付与される、無意識の主体としての何らかのパターン性が付与されるということだろうか。レヴィ=ストロースの「象徴的効果」の論文では、難産の母親のために呪術師が出産の物語を唱え、母親の代わりに苦しむという儀式を行うことによって出産を成功へと導くものであった。それはつまり、予測を裏切るこの現実に対して、それを含み込んだ新たな神話を語り出すことによって再び世界観としての統一を得ようとする行為である。それで、実際にうまく行ったりする。
これは「呪術死」現象においても起こっていることであろう。悪い呪術を食らったり、共同体の掟を破った人間は、神話的には死んだことになったりする。そうなると本当に即死するわけではなく、その人物は共同体から忌み嫌われ、その人物もそれを受け入れ、孤立し、やがて自律神経に失調をきたし、栄養を摂取しなくなり、死ぬ。ある意味で、呪術が本当に人を死に至らしめるのである(cf. 「呪術師とその呪術」)。現実の事物に、シニフィアンの操作が影響を及ぼす。それが「わたしje」の形成にも起こっており、それをイマーゴの機能はになっているということなのか。
実在(しかし想像的な)を、象徴的に読む。解釈し、神話を語り出す。それによって世界が変わる=世界の見方が変わる、というのは「象徴的効果」の内実であろうか。
次にDunandはランガージュとパロールの違いについて語っている。レヴィ=ストロースにおいては、ランガージュは無時間的(可逆的)、パロールは時間的(不可逆的)であり、神話というのはこの両者を結びつけるシステムであるとされていた。これに対してラカンはパロールを主体に対して何らかの意味を持つものと考えているという。つまり、「意味の啓示=暴露rebelationであり、さらに言えば、存在の啓示=暴露である」(Fink, B. et al, p. 106)。ここにレヴィ=ストロースとラカンの違いはあるだろうか?
そして最後にセミネール2巻の「象徴的宇宙」と題された日のセミネールについて。これについては以前に考察した(https://shanazawa4.wordpress.com/2024/08/24/2024-8-24/)。
批判点あり。Dunandは、ラカンがエディプスコンプレクスを偶然的かつ普遍的と形容していることを、レヴィ=ストロースが『親族の基本構造』の中で「文化」に対して与えた定義と同じだと言っている(p. 106)。しかし、「普遍性」とはむしろ人間における「自然」の部分であり、だからこそ文化と自然の接点に関わるものだとされているはずである。
しかしそのあとでDunandはインセスト禁忌が普遍性を持ち自然と文化の両方に当たることを認識している。自然法則が見つかるとき、それは自然のものなのか、文化のものなのか。何か法則が見つかる時には、Dunandによれば、常に我々は「文化culture」の領域にいる。そして最終的にDunandが結論づけるのは、レヴィ=ストロースが考えた「自然/文化」という二項は、いずれも「二つの想像的なエイジェンシーである」(p. 107)ということ。本当に区別すべきは「現実的なものと象徴的なもの」である。
レヴィ=ストロースのように自然と文化の違いを考えるとパラドクスに陥る。したがってラカンのように、現実と、それを覆う象徴(のネットワーク)という二項を考えるべきだ、という論調である。
よし、一旦これで最後まで見たということでいいだろう。
次は図書館の在庫や入手可能性など考えつつ、とりあえず、
ミケル・ボルク・ヤコブセン(2008[1999], [原著1991])『ラカンの思想 現代フランス思想入門』、第五章「言葉でなにもしないにはどうするか」、「無意識は神話である」「呪術師とその魔術」、p. 228~
その次はJuan Pablo Lucchelli(2006), Le mythe individuel revisité, https://shs.cairn.info/revue-l-information-psychiatrique-2006-2-page-155?lang=fr
というところか。
ミケル・ボルク=ヤコブセンの当該箇所を読んだ。p. 228-56。かなり重要だし議論としても重厚。もう一度検討しなおしながら、ラカンのテクストもその都度。再確認する。あと、「神経症の個人神話」(1953)を読むためにも、フロイトの鼠男症例はこの際に読解しておこう。ラカンのいう「個人神話」とレヴィ=ストロースの神話の違いは重要な論点である。
ボルク=ヤコブセンは当時の先行研究やナンシー/ラバルトの「le titre de la lettre」も読んで、さらにラカンのテクストも縦横無尽に参照しつつ、非常に議論の本質的なところを突いている。ラカンとレヴィストロース、精神分析と呪術の関係、同一性と差異を考えるところから、最終的に精神分析共同体の宗教性にまで話を発展させていく。未開社会とは異なる、このあまりにも現実的な現代社会においては、呪術も個人神話も通用しない、そんなものは社会的に承認を受けないからである。ではどうするか。ボルク=ヤコブセンによれば、ラカンは一つの精神分析共同体を拡大させようとした、それも「狂気」でありつつその狂気を自覚しているような共同体を拡大し、その中で個人神話と集団神話とを再び調和させようとした、とされる(それは失敗したと言えるが)。
精神分析共同体の「宗教性」に関してFr. Roustang〔ルースタン〕という研究者の仕事が紹介されている。この辺りは現代でも東畑開人監修のジェイムス・デイビス『心理療法家の人類学』(邦訳2018)でも痛烈に批判されているところである。Roustangの仕事もいつか見てみたい。僕としては、ラカンがまさにセミネールの最初の主題として扱った「抵抗」という概念が重要であると考える。抵抗の問題とはつまり、宗教共同体における「伝導」を考えることでもあるはずだ。ボルク=ヤコブセンがいうように、ラカンが「教育分析」こそを純粋な精神分析と考えたとき(普通は患者の分析があって、それを継続するための従属的なものとして次世代育成、教育があるところを、ラカンは転覆させたのだ)、まさに伝導、つまり精神分析家の育成及び精神分析共同体の拡大を精神分析の本質として据えたことを意味しているわけである。
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