新宿無教会に行って帰宅。睡眠時間はとったはずなんだが帰宅したらどっと疲れが出たので、昼寝もする。エックハルト読書会に向けて調べ物を少々。
昨日、若者について妙にむかつきが高まっていたので考えていた。といっても、若者よりも子供老人の方が人間として断然よくないか、という思いはもう何年も前から、それこそ自分が現役若者だった頃から抱いていた。新宿無教会はもともと北大にいた時に千葉先生に可愛がってもらったことがきっかけで、自分で調べて参加し始めた。それがもう4-5年前になるが、その時は2-3ヶ月くらいで通わなくなり、最近になってまた行き始めたのである。千葉先生は僕が教わっていた年で定年、新宿無教会は千葉先生の同期の人たちが今でも主要メンバーなので、ほぼ全員が年配。それからまた別にヨーガのお教室も、基本的には地元の主婦・定年退職層。山谷の人々も皆高齢者。そして家庭教師で教えるのは子供たち。そういうことで、自分がなにか誇りのようなものを感じながら接してきた人たちはみな子供か老人なのである。
もちろん、だからといって若者に触れていないわけではない。大学に通っていたから、そこに多くの若者がいたし、友人たちも基本は若者である。だが僕はいつも若者に失望させられてきた。期待しては裏切られるので、基本的に若者には期待しないように徐々に変容してきた。
僕は今28歳で、世間的には若いと言われることも多いが、若さの黄金期からはすでに外れたと思う。そうするとそれなりに幾らかの経験を積んで学びもあっただけでなく、身体的な変化も起きてくる。スケジュール管理は上手くなったし、朝は目が覚めやすくなった。10代とか20歳前後、前半くらいまでは料理も掃除もできなくてだらしなかったし、時間を無駄に過ごしていたし、いくらでも眠っていられた。正直、いまは昔と比べて体力の点で衰えているのかもしれないが、それにもかかわらず圧倒的に生産力が向上しているし、精神的にも健康である。なにより、大切なことに向き合っている時間がかつてよりずっと長い。
とはいえ、どんなものも神様がお造りになったわけで、若者にも若者固有の良さがあるはずだ、それを自分がまだ洞察できていないだけだと、むかつくほどに反省的に考えてみるというのが僕の癖でもある。若者の良さとは何か。肌がきめ細かい。肉体的なフレッシュさ。エネルギー量とその浪費。エネルギー効率の悪さ。そして愚かさ。
色々考えたが、最終的には「罪」ということを思った。若者とは罪な存在であり、あらゆる罪は若者から(あるいは精神的な意味での若者から)生じているのではないか、と。アダムは930歳まで生きたが、彼でさえ罪を犯したのは若者の時であった。若者は愚かと思うが、仮に愚かさというものをぐちぐちとしたことを考えない清々しさと肯定的に捉えるとすれば、子供の方がよっぽど愚かで清々しい。子供はエネルギーの浪費が最も激しく、それゆえに周りに無自覚に贈与しているのだ。これに対して若者は小癪にもエネルギーの節約・操作を身につけ始めており、無自覚的贈与に代わって「所有」を開始するのである。それにもかかわらず若者は自分が贈与されていることに無自覚なので、甘い汁だけ吸ってそれに無頓着なまま、自分は立派な大人であるなどと馬鹿げたナルシシズムに陶酔している。
若者の良さは結局、肉体美だけかもしれない。その点では文化系は不幸である。
子供は愚かだが清々しい。老人は賢く、その諦めゆえに贈与的である。若者は愚かでもなく賢くもない、小賢しい存在である。自分には明るい未来と希望があると錯覚し、いま自分が手に持っているものを手放そうとしない。すべて与えられるものは取り込んで貯め込もうとする。他者への贈与は、自分の明るい未来に翳りが混入することを意味するのである。
僕は直接的な人間関係で若者に嫌気がさすことも何度もあったが、最初は大学の授業に出席する学生たちのあの黙りこくった態度が嫌で嫌でしょうがなかった。いまでも軽蔑している。授業というのは出席者の貢献によっていくらでもその価値が増減する。それなのに多くの学生は自分がなにか情報をゲットできればいいと考え、ひたすら速記者の役割を演じ(だがその速記録は特段公開されるわけでもないのだ)、教師や一部の学生が問いかけるように議論をするのに全く耳を貸さない。授業を主体的に構成しようとする学生たちを、自分を衆目に晒してでも支えようとは考えないのである。さまざまな事情はあれ、その事情を差し引いても彼らの根本的な無関心・自己中心的態度に変わりはない。
いろんな人を見ていると、贈与的な人間と、非贈与的な人間がいることがわかってくる。少し接すると、はっきりと分かる。
僕自身は、問題は未来に希望を持つということにあると思う。それはすなわち幻想を持つということである。人間は自分の欲求が満たされない現実から目を逸らし、幻想や幻覚によって満足を得ようとする心を持っている。そこから、現実を知り、そこで生きていくための心の成熟を必要とするのである。それは個人個人の実存であると同時に、人間というものの普遍的な存在条件なのである。人間はその欲望を、少なくとも100%充足することはできない。無理なのである。欲望でありながら、その欲望が充足されないというこの苦しみ、この不幸が人間存在の本質である。そのことが人間のさまざまな文化を生み出した。つまり人間の創造物は、現実の不幸に対する象徴的な復讐であり、恐ろしい現実の直視を緩和する手段なのである。
現実との関係をなんとか形作っていくこと、幻覚的満足でもなく、単なる直視でもない、象徴による代理満足を得るべく創造することが人間の生きていく道である。希望を抱いた若者は、その希望を打ち砕かれる悲劇的な運命を背負わされている。どんなに成功しても、希望は打ち砕かれる。打ち砕かれていないと考える者は、幻覚的満足に逃避しているだけなのである。大人の役割は、若者が現実と直面するところに適切に介入し、現実の関係形成を支援することにある。それは単に若者に対し「若いっていいね、未来があっていいね」とおだてることだけではない。何らかの形で「お前の希望は諦めざるを得なくなる時が来るのだ、だが、その絶望からまた立ち上がることはできる。それが本当の希望だ」と伝えることである。
それでも伝わらないのが若者という存在だとも思う。伝わるわけがないのだ。そしてそうした良心的な大人たちを裏切って自爆し、そこで悔い改めることになる。だが、現代はさまざまにトラップがあると思う。大人たちは若者に伝えない。若者は幻覚的満足に安住する。あるいは、悔い改めることもない。
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