今日は大雨だったがヨーガのお教室。いつもより長めに80分ほど坐った。前日とても疲れていたのだが、睡眠が良かったのか体調が良かったのか、眠気がそこまで来ずにいつもより集中することができた。
呼吸操作に意識を集中することで眠気覚ましになるのだが、操作が難しかったり、「全託」と言っていかなる一点にも意識を集中しないという行法をやったりすると、だんだんとイメージ(=雑念)の波に流されてしまってそのまま夢の中に入り、こっくりこっくりする。いつもそれとの戦いなのである。今日も例によって集中の糸が緩んでイメージの渦がぐるぐると回り始めたのだが、いつもとは違って、それと同時に覚醒した意識を半分保っていることができた。先生は、それはやっぱり半分眠っていると言っていたが、全部眠ってしまうのとはまた違っていた。だからそこまでこっくりともしない。明晰夢に若干似ているのだろうか、それが単なる夢的なイメージの渦であることを自覚しているのである。だから変な話だが、目を瞑っているのに視覚イメージが浮かんでいることに対して「おかしい、こんなものは見えていないはずだ」と意識が働く。
そこで、意識操作によってイメージを払拭しようと試みる。イメージが浮かんできたらそれに墨塗りするようにしてぐしゃっと消してみるとか、何か漠然としたものに絡め取ってもらうとか。つまり「イメージを消すイメージ」によって消そうとするのだ。夢を食べる獏のようん存在に助けてもらうのだ。だが、それもまたイメージに過ぎないので、それを起点に新たなイメージのストーリー(夢なので荒唐無稽である)が始まってしまう。一点に集中しようと思って目の前に十字の線を作り、その交差点に集中しようとも試みたが、結局は徐々にイメージが崩れては再形成されていって、生成AIの画像生成のごとく夢のイメージ世界がみるみる始まってしまう。
おそらく、視界だと目を瞑っていて(本来は)黒色しか見えないので、イメージ世界が形成されるキャンバスを提供してしまうのだろう。ということで、聴覚に集中することで、いま現に知覚しているものの存在感を利用とすることにした。夢は夢、現実は現実である。
そんなこんなで瞑想の時間を飽きることなく過ごしていたわけだが、映画館で眠気から急に覚める時のように、意識が朦朧になった後にスッと覚醒して集中タイムが始まる時が何度かある。今日も何度かあり、その度に呼吸がすっと通る感触を得たり、イメージが何か特殊な動画を展開することがあった(なにか巨大な城壁のようなものがカチャカチャ生成されていて、見ていて面白かった)。
先生の話を聞いていると敬虔な気持ちになって、家でも瞑想を続けたいと思うのだが、日常生活に戻ってくるとなかなか難しい。帰りに八王子駅まで車で送ってもらって、道中色々とこの数ヶ月で考えていたことを話した。とても良い時間だった。
基本的に、自分のことなんかどうでもよい、人に尽くすのでなければ人間はダメだ、自分のために生きるなんていうのは嫌気がさすという性格の人間でなければ(後天的に成るケースも否定はしないが)、一生理解できない物事が世の中にはある。ヨーガというのはその一つである。
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