2024/12/30

パラノイア論レジュメし、心理学草稿を読んでから実家に戻る。フロイトのパラノイア論はすごくリアリティがあって、最近はよく考える。精神医学(精神分析)の概念を素人が安易に診断するな、という抗議があると思うが、当のフロイトは大胆に診断していくと思う。素人が慎重になりそうなところをフロイトはガンガン踏み込んでいき、素人が大丈夫そうだと思うところでフロイトは慎重になる。

投射された嫉妬は、自分の中に不実があるのを抑圧し、代わりに相手の中に不実があるのではないかと疑う嫉妬妄想につながる。相手が無意識にこのように考えているのではないかと疑うことは、ほかならぬ自分がそのように考えているからだ。これは記号解釈一般について言える。言葉の意味を理解した時、その理解内容は相手が意図したものなのだろうか。言葉は、自分の意図をそこに載せて相手の中に注入するような、梱包材のような道具なのだろうか。おそらくそうではない。その言葉がそのような意味で理解されるのは、受け手がそのような意味で理解しているからである。つまり記号理解においては、自分の中から生じた解釈が、相手の意図として投射されるということが日常的に起こっている、と考えることができるのではないか。しかしそれが、両者で厳密には全く同じ理解ではないとしても、コミュニケーションとして成立するということが起こる。この事実が、言語(ランガージュ)というものを構成する。

解釈がつねに投影的な性質を持っているとすると、精神分析とは一体何をしているのかということにもなる。精神分析を学ぶと、しばしば日頃話す相手が無意識にどんなことを考えているとか、どういう欲望を持っているかということを疑り始めたりする人がいるが、あまり意味がないと思う。それはむしろ嫉妬妄想のような投影に近い。では精神分析においては何をしているのだろうか。

僕も精神分析を学び始めて、理論的哲学的な視点からしか学んでいないが、それを通して日常の対人関係や思考に徐々に浸透してきている感じがする。でもそれは、他人に対して分析的な解釈を加えることではない。自分で自分に解釈を加える。他人の語ったことや行動に対して、こうなのかもしれないと考えたりすることはある。でもそれはほとんど当たらないし(むしろ直感的に感じ取ることのほうが当たっている)、真面目に受け取ることはない。これに対して、自分がとった行動や語った言葉に対して、もしかすると自分はこういうことを望んでいるのかもしれない、と考えることはよくある。そしてそれは、当たる当たらないというよりも、今まで考えても見なかった新しい可能性、自分の欲望の新しい形が見えてくるような感じがする。

解釈というものの根本的な投影的性格を考えることで、精神分析の患者が「分析主体sujet」と呼ばれる所以の一端がわかるかもしれない。結局、自分を解釈できるのは自分自身だけなのだ。

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