ラカン『Premiers écrits』3つ目の論文。Structure des psychoses paranoïaques, PARU DANS LA SEMAINE DES HÔPITAUX DE PARIS, 1931
パラノイア概念について、諸々の先行研究(特にセリューとカプグラ、クレランボーら)を参照しながらその特徴の説明と、病態分類を行なっている。方向性としては、正常な状態とパラノイア状態の間には断絶があるとして、これを「性格caractère」で説明する傾向に対抗しようとしている。1932年のラカンの博論と、おおよそほぼ同じ方向性の議論になっている。
パラノイア性精神病には三つのタイプがある。それぞれ「パラノイア気質constitution paranoïaque」、「解釈妄想délire d’interprétation」、「熱情妄想délires passionnels」である。
パラノイア的気質においては、
1. 病的な自己過大評価:演技的・虚栄的な行動をとる。「ボヴァリズムbovarysme」と関連。
2. 疑念Méfiance:すでに準備された妄想へと外的経験が集約されていき、妄想が結晶化していく。外的世界に対して常に疑念を抱くということか。(「私を狙っているんじゃないか」、とか?)
3. 判断の誤謬Fausseté du jugement:あらゆる判断が一つの妄想体系へと収斂し、その際に論理の逸脱や詭弁、擬似論理に迷い込む。セリューとカプグラがいうところの「理性狂fous raisonnants」。とはいえ、ある時代的条件が整えば、このような抽象的な思考運動は成功を収めることもあるという。
4. 社会的不適応:「彼の道徳的立場の曖昧さL’ambiguïtéは、他者からの評価を必要としながらも、それを得ることに失敗し続けるところにあります。評価されたいという渇望がありながら、その評価が常に彼を屈辱的な気持ちにさせるのです」[PE 42]。なかなか耳が痛い話。
といった特徴を持つ。
ラカンはパラノイア的な精神生活が人間の全人格に対する影響を考えるためには「生命状況への反応réaction aux situations vitales」という考え方が有効だといっており、この概念がユクスキュル由来だと注記している。すでにこの頃からラカンはユクスキュルの概念を使っていることがわかる。(ユクスキュルについては10/6の記事:https://shanazawa4.wordpress.com/2024/10/06/2024-10-6/)
次に「解釈妄想」は、何か引き金となるような原因(病気や外傷など)によって引き起こされ「意味のある要素が一気に凝縮するような現象が起こります」[PE 44]。外的経験が全て何らかの意味を持ったものとして、解釈の対象になる。それらのものは全て妄想の主体に向かって求心的である。
解釈妄想における妄想は合理的に組織化されていないらしく、クレランボーが口頭で言ったとされる「それは脊椎動物ではなく環形動物だ(annélide, non un vertébré)」と表現されている。ラカンは「私たちはこの分野においても、方法においても、彼に多大な恩義を感じており、剽窃の疑いを避けるためには、私たちの用いるすべての言葉に対して彼に敬意を表すべきでしょう」ともいっているが、セミネール3巻だと必ずしもクレランボー賛美ということにはならない。どこかで聞いた話だが、ラカンはクレランボーとの確執もあったらしく、二人の関係、思想的影響がどうなっているのかは調べるべきところ。
第三のものとして、「熱情妄想」がある。これはクレランボーのいう「熱情精神病」のこと。熱情妄想は要求妄想、エロトマニア(恋愛妄想)、嫉妬妄想に区分される。
熱情妄想はときに殺人の実行などにも繋がるので、犯罪心理学的には警戒が必要な症状。これはパラノイア性妄想とは異なる。パラノイア妄想は解消不可能なので、たとえ改善が見られたとしてもそれは隠蔽に基づいたものである。しかし熱情妄想は何らかの行動(最も危険な形では殺人)によって解消できてしまう。だから危ない。「それは犯罪行為によって燃え尽き、欲求が満たされるからです。」[PE 52]
とりあえずここまでをまとめると、パラノイア性精神病は「性格」ではない。正常な状態とは不連続な状態であるとされる。そして「パラノイア的気質」、「解釈妄想」、「熱情妄想」の三種類に区分でき、後ろ二つに関してはそれぞれセリュー&カプグラ(『理性狂』)、くれランボー(『熱情精神病』)の議論が紹介されている。
続きはまた。
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