なぜ象徴が交換されるのか、その動因を説明するのが「序文」における「マナ」の概念である。ただし、象徴システムの全体性としての「浮遊するシニフィアン」によって、そのシステムが「自律性」を獲得したとまで言ってよいのかに関しては、ラカンのとレヴィ=ストロースの間の微妙な差異を無視することができない。
「象徴(システム)の自律性」を巡っては、ラカンとレヴィ=ストロースの間に対立を置くことがしばしば先行研究においてなされてきた。
長谷川朋太朗は、ラカンとレヴィ=ストロースにおける「象徴的なもの」を比較し論じたDescombes、Scublaの研究を参照して、「ラカンはレヴィ=ストロースの認めない象徴的なものの自立性を主張している」とまとめている。
その意味を我々は、ラカンのセミネール2巻の「象徴的宇宙」と題された回の内容から量ることができる。
この日のセミネールの前日には、SFPが主催した「人間科学」に関する連続講演の、レヴィ=ストロースの講演があった(「親族対家族la parenté contre la famille」)。セミネールではラカンが議論を先導しながら、参加者たちでその内容を検討している。
結論から言えば、象徴システムは普遍性を持っている。ここでの「普遍性」は、まずもって『親族の基本構造』の議論をふまえている。レヴィ=ストロースは『親族の基本構造』第1章で、文化と自然の境界、ないし自然から文化への移行点がどこにあるかを考えている。彼はそれまでの数々の心理学、動物行動学、社会学等等の先行研究を批判的に検討し、それらがいずれも文化(人間的なもの)と自然の境界を見出すことができなかったとする。
そこでレヴィ=ストロースが考えるのが、婚姻関係である。類人猿には、たとえそれがどんなに高度に発達した種であっても、無差別な性行動が観察される。そこには内的・外的刺激に対する反応と軌道修正程度の学習があるだけであって、行動を支配する規則としての「規範」は存在しない。これに対して人間においては、程度や様式の差はあれ、いかなる地域の社会にも「インセスト禁忌」が存在する。レヴィ=ストロースは「インセスト禁忌」が人間社会のあるところに遍く存在することを「普遍的」と称し、人間における普遍的なこのインセスト禁忌こそが、自然から文化が誕生した契機と見なす。
ラカンのセミネールの参加者たちは、レヴィ=ストロースの「普遍性」をめぐって討論を交わす。ラカンが「象徴」が持つ「普遍的」という性質を語るのはここである。
「言い換えると、すべてが相互に連関しあっています。人間的次元という固有の領域において何が起きているのか、ということを考えるためには、次元がひとつの全体性を構成しているという考え方から出発すべきです。象徴的次元における全体性は宇宙un universと呼ばれます。象徴的次元はまずその遍在するuniverselという特性において与えられます。/この次元は少しずつ構成されるのではありません。一旦象徴が到来すると、そこにはひとつの象徴の宇宙があるのです。」(S2「自我」上巻p. 45)
人間的な固有の領域は「象徴」の領域にあり、象徴システムは一つの全体を構成している。ここまではレヴィ=ストロースの主張と違わない。ラカンがその先に進むのは、象徴的次元の「普遍性」を「宇宙univers」と読み換え、象徴システムを一つの「宇宙」と捉えることによってである。
ラカンのこの規定が読み換えと言える理由は二つある。第一に、レヴィ=ストロースは「インセスト禁忌」がどの文化にも「普遍的に(遍く)」存在することを、ただ経験的にしか示していない。彼はいくつかの研究を引いて、インセスト禁忌が存在しないように見える社会にも、程度の違いがあるだけでやはり存在することを示しているにとどまる。これに対してラカンは象徴の性質として、はじめに「普遍性」を置き、それを経験的に根拠づけることをしない。第二に、一見すると経験的なレヴィ=ストロースの論述もまた、経験の持つ有限性から「普遍性」へと跳躍しているように見えるからである。レヴィ=ストロースの根拠づけは、そこからインセスト禁忌の「普遍性」を措定するには不十分である。ここにはレヴィ=ストロース自身が意図していなかったかもしれない彼の前提があると言える。
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