2024/9/20

昨日の朝から、wordpressの投稿編集画面の、本文入力における予測変換の動作がおかしくなった。ブラウザ上でもデスクトップアプリでも同じ。ipad上でbluetoothキーボードを繋いで入力すると正常に作動する。macbookだけである。文字を入力すると変換候補の窓が出る。そこで1回スペースキーや↓キーを押すと、最初の候補に変換されて即座に変換窓が消え、当該文字が範囲選択された状態になる。

しかし他のアプリや通常の検索ブラウザでの動作は正常なので、macの問題ではなくwordpress上の問題と考えられる。問題についての記述がややこしいので検索が難しく、同じ症状に関する記事をあまり見つけることができない。唯一かなり近い症状と思われるのは「https://sysb-web.jp/2019-09-13/」の記事であるが、こちらはandroidスマホでのことらしいのであまり参考にならない。この記事では「ブロックエディター」を使うことで動作が治ったらしい。

そこで、色々と検索してみたりchatgptに聞いてみたりしたのだが、結局、投稿編集画面にて「エディター」を、「ビジュアルエディター」から「コードエディター」に変えると、正常な入力が可能になった。どうやらエディターのバグか、あるいはエディターのシステムと他の何か(macのシステムか、chromeのプラグインか、別の何か)が競合しているのかもしれない。

ビジュアルエディターに戻してこの上で入力しようとすると、変換バグは相変わらず起こる。競合先がなんなのか特定する作業は面倒である。一昨日までは普通に使用できていたので、wordpress側の仕様の変更やアップデートがきっかけになったのかもしれない。しばらくはコードエディターを使って記事作成を続け、仕様が再び変わって普通に使えるようになるのを待つか。

wordpressのエディターは、何年か前にクラシックエディターからGutenbergエディター(ブロックエディター=現在の「ビジュアルエディター」)に変更されたらしい。あらゆる入力を「ブロック」として扱うのが特徴で、使いやすいといえば使いやすいのだが、処理が高度なために不具合も起こるのだろう。

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昼過ぎごろ、昨日ラカンの「Le Mythe individuel du névrosé: ou poésie et vérité dans la névrose(神経症者の個人神話)」を買ったAmazon.frからメールが来て、なぜか返金されたとの旨だった。返金理由は「アカウント(口座)の調整Ajustement sur le compte」。よくわからないので調べたら同じような目に遭った人がたくさんいた。出品者が勝手に返金手続きをするとこの返金理由が表示されるらしいのだが、詐欺業者だった可能性が高いらしい。住所や名前の情報と取られてしまった可能性がある。中古で出品されていた安いものに釣られてしまった。最近SEIYUで安くなってたから買った真ダラが臭くて後悔したが、つくづく安物買いの銭失いを実感する。仕方ないので、Amazon.jpとAmazon.frのそれぞれの値段と到着日時を比較して、結局Amazon.frで売られている新品(出品元がAmazon)を再購入した。13ユーロなのだが、送料込みで3665円。100ページ程度の小冊子がこんなに高くなるなんて。

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ラカンの「神経症における<詩と真実>—神経症者の個人神話—」(1953)を読む。これはローマ講演より前の時期、ラカンがジャン・ヴァールの招待に応じて哲学コレージュの学生たちを前に行った講演である。ラカンとレヴィ=ストロースに関する論文を読みすすめるなかで、Juan Pablo Lucchelliがこの講演記録を中心に論じているので、フロイトのねずみ男症例と並行して読んでいる。

まずラカンは、精神分析とは科学なのか、それとも芸術(アート)なのかという問いに対して、自分はそれは中世における真の意味での「リベラル・アーツ(自由技芸)」に比せられるべき学問であると考える、と述べている。リベラル・アーツとはかつて、天文学や算術、弁論術、文法、習字学、幾何学に及ぶものであったのだが、一言でいえば「人間のあり方に根本的に関わるものを、何よりも尊重する」(新井清訳、p. 56)ような学問であるという。特に重要なのは「言語の使用、言葉〔パロール〕を使うという点」である。

そして、分析的関係は「真実の構成」に関わるのだが、それはつまり、真実とは言葉を通じて表出されるものであり、しかし表出され尽くすことは決してないようなものだ、ということである。分析は患者の言葉(語り)を通じて患者の無意識のコンプレックスの核、「真実=真理」を明らかにするのだが、それがその起源へと完全に到達することはない。そこで語られるのは、真実というよりもむしろ神話である。神話と真理の関係について、ラカンは巧みに表現している。

「正確にいうなら、神話とは、真実を定義しようとしたところで、その定義のうちには移し替えられないこの何ものかに、なんとか表現を与えようとするものだと定義することができます。」(p. 56)

そこでラカンが検討を試みるのが、フロイトの五大症例の一つ、「ねずみ男」症例である。ラカンの語りは、ねずみ男症例のストーリーの記述にかなりの部分費やされている。興味深いのは、ラカンがフロイトの症例論に見出す重要性を、「この症例の示す極端な特殊性」においていることである(p. 59)。「どんな症例でも、理論などまるで感知しないかの如く症例の持つ特殊性に固執して研究すべきだとは、フロイトのいつも強調してやまないことでした」(p. 59)。そして、それを幾何学の直観と証明の違いに結びつけている。

「それは、幾何学における特殊例が、証明に比べて、まったく鮮かにも明証性において勝っているということに相応するでしょう。というのも証明の過程では、証明がもつあの論証的な性格からして、真理は長々と続く演繹の闇の中に隠されてしまうからです。それに反して特殊例は、全的に直感的な仕方で提示されてくる何ものかを、明証的に会得させることができます。かくてわれわれは、「ねずみ男」の症例において、幾何学の特殊例に生じることとまさしく相似的なものを見出すことができることになります。」(p. 60)

これをみて僕が思い出すのは、フロイトがねずみ男症例の理論篇の注で語っていた、母権性と父権性についての対比の記述である。フロイトはリヒテンベルクの格言を引く。自分と自分の母親の血縁が明証的であるのに対して、自分と自分の父親の血縁はそれほど確実ではない。この二つを、感覚的明証性と推論による結論にそれぞれ割り振った上で、「〔この二つを〕同じ価値を持つものと認め、母権制度から父権制度へと踏み出す決心をした時、そこの偉大な文化的進歩が起こったのであった」(フロイト著作集9、p. 270)とする。確かに、感覚的な明証ではなく計算や推論や算術による推論を経て、導出されたもはや明証的ではない結論に賭けて行為するというのは、合理的な科学の始まりであると言えるかもしれない。この注は、強迫神経症者が持つ懐疑的性質を説明した節に付されたものである。強迫神経症者は不確かさや疑惑に対して過剰に敏感かつ愛着的であるがゆえに、父と子の血のつながり、寿命、死後の生命・記憶(の確かさ)に執着する。したがってフロイトはここで、強迫神経症者は母権性から父権性への投企を果たすことができないまま止まっている、ということなのだろうか。ただ、そのように解釈するなら、ラカンの言葉はむしろ母権性・明証性・特殊性に止まれ、と言っていることにもなる。

ラカンは「神経症者の個人神話」において、ねずみ男の周辺の人間関係が、その「人格的発展の源泉となる原初的布置constellation」(新井訳p. 60)(ラカンはこれを占星学的な意味での「星座constellation」にもなぞらえている)を反復したものになっていることを何度も示している。患者の「原初的布置」はまたその人格の「先史時代pre-histoire」でもあり、それは父親がかつてその渦中にいたところの人間関係でもある。患者は幼少期に父親から、結婚のロマンス話や、友人に借金をしたことなどを話しており、患者はこれらの話をいわば自分の人格にとっての「神話」に位置付けていたのである。患者は神経症的な症状に苦しむ中で、無意識のうちにこの父の神話を自分の状況の中で再演している。

しばらくラカンによるねずみ男症例の振り返りが続く。一つに気になったのは、A中尉に対する負債の返済と、鼠刑罰が恋人および父親に降りかかるという不幸の関係についてラカンが説明しているところ。返済先がA中尉でないということを知った患者は、それでも奇妙な解決策を思いつくことでなんとしてでもA中尉に返済を行おうとするのだが、それについてラカンは次のように述べている。

「代金返済を自分に誓ったかぎり、強迫観念が予告している破局が自分のもっとも愛する二人、父と恋人の上に起らないためには、当の代金を、A中尉から優しい心の郵便局の受付嬢に支払ってもらうのがよいだろう、彼女は、彼の目の前で、その代金をB中尉に渡してくれるだろう、そうすれば、この事件にはまったく無関係のA中尉には、誓いの言葉どおり、自分から返済できることになるだろう…。つまり、彼にとってどうしても必要と思える強迫的な儀式を果すことができるというわけです。」(p. 63)

この書き振りだと、「返済しなければ父と恋人に不幸が起こる」という意味になるだろう。しかしフロイトの記述では、ねずみ男は第一に「金を返すな、さもなければあのことが起こるぞ」と考え(禁止命令)、次いで第二に「返さなければならぬ」(禁止命令を打ち消す命令)と考えたのである(フロイト著作集9、p. 223および260)。したがって、実際には、「返済すれば父と恋人に不幸が起こる(だから金を返すな)」なのではないか。

とりあえず先に進む。

ここからラカンは、フロイトの記述を超えて解釈を生み出していく。鼠男が考え出した奇妙な解決策、すなわち「A氏およびB氏と一緒に郵便局へ行き、そこでA氏が受付嬢に3.80クローネを与え、受付嬢はこれをB氏に与える」(フロイト著作集9、p. 223)において起こる金銭の移動が、「患者の原初的状況とそっくり等価物である」というのである(新井訳、p. 63)。どういうことか。ここには4人の人物がいる。ねずみ男、A中尉、B将校、郵便局の受付嬢、である。金銭はねずみ男→A中尉→受付嬢→B将校へと移動している。ラカンは着払い代金を立て替えてくれた郵便局の受付嬢を「寛大な女性」と表現しているのだが、これは金を横領して賭け事に使ってしまった父親に寛大にも金を貸してくれた「(父親の)友人」と同じ位置にあると考えられる。


父親は結局、友人に借金を返済することができなかった。患者(ねずみ男)はその負債感を父から強迫症として引き継ぎつつ、自らも無意識下では本当の返済先を受付嬢と知っていながらもそれを抑圧することによって、A中尉への返済という実現不可能な目標に執着し続けることで、父親と同じ状況(返済できない)を再現しようとしているということになる。あるいは、受付嬢は返金を受け取ることがなくなる。これはまた、患者が列車に乗ってヴィーンまで行ってしまい、そこで友人に迷惑をかけた(その友人は患者の強迫症を心配して、一緒にヴィーンの郵便局に行ってやり、そこから3.80クローネを受付嬢のいる郵便局に送金するということをやってあげたのだが、もしかすると友人はこの時金を立て替えてやったのかもしれない)。フロイトはたしかどこかで患者の友人に対する「忘恩」を指摘していた覚えがある。

ラカンは患者がヴィーン行きの列車に乗り、次の駅で降りなくてはと思いながらさまざまな口実をつけて列車を降りられなかった場面について次のように言っている。

「かりにこのシナリオが実行されるとしたならば、費用の出し損をするのは結局は郵便局の受付嬢ということになってしまい、非現実的で、愚かしく罪ぶかい事件となってしまうでしょう。ところが事実としては、神経症者の実際経験のうちではいつもそうであるように、現実が有無をいわさずにつきつけるリアリティの方が、神経症者を果てしなく苦しめていくいっさいの空想をしのいで、圧倒的優位を占めるものなのです。」(p. 64)

これが少しわかりにくい。神経症者においては現実よりも空想の方が優位になってしまうのかと思いきや、「リアリティの方が、神経症者を果てしなく苦しめていくいっさいの空想をしのいで、圧倒的優位を占める」と言われている。「次の駅で降りなければ」という空想的な強迫に対して、どんどんヴィーンに進んで行ってしまう列車というリアリティ、ということだろうか。ここでラカンは、患者がヴィーンの親切な友人と一緒に郵便局宛に金を送金したのは「彼がフロイトのもとで治療を開始してからのこと」だと言っているのだが、時系列はそれであっているだろうか?この問題は9/11の記事で疑問を出していたところである(https://shanazawa4.wordpress.com/2024/09/11/2024-9-11/)。僕が読んだ時には、この話がなされるのは「第三回の分析会見の終わり」(フロイト著作集9、p. 224)のことだったのだが、フロイトの論述においても、やや唐突に始まっている。第二回目の分析と思われるところでの患者の語りによって、患者がいかにして強迫観念を持つようになり、フロイトの元に治療に来るようになったのかが語られ始めるのだが、その途中でいきなり「第三回の分析会見の終わりに」と言われるのである。ヴィーン行きの列車云々の話は、てっきり患者がフロイトの治療を受けに来るまでの話だと思っていたのだが、ラカンが話すところによれば、フロイトの治療を開始してから(直後)のことになってしまう。ここは混乱を招くところである。

他方で、父親の結婚ロマンスの問題もある。患者の父親は、現在の金持ちの妻と結婚する前に、「美しいが貧しい少女」(フロイト著作集9、p. 246)に言い寄ったことがあった(それを患者は幼少期に聞き知った)。父親は結局のところ金持ちの現在の妻と結婚したのであり、いわば「貧しい娘を金持ちの娘に置き換え」(新井訳、p. 65)たのである。患者もまた、貧しい自分の恋人と、金持ちの家柄の良い少女(親戚を通じてめあわせられる許嫁)のどちらを選ぶかという葛藤に苦しむことになる。

ラカンは、「金持ちの娘」-「貧しい娘」という二項に、「負債」-「返済」という二項を重ねる。ただ、これが逆でもいいのではないか(金持ち娘は返済に、貧しい娘は負債に、あてがわれてもいいのではないか)とも思う。

「すなわち、負債が返済されるためには、友人に負債を返すということは空想の内では問題とはならず貧しい女性に返すということがテーマになっていることがわかります。なぜなら、強迫的な危機のなかで問題になっている基本的事実を検討してみると、郵便局の受付嬢のいる場所に戻りたいという、患者にとってタンタロス的願望の対象となっているものが、実はその受付嬢その人ではまったくなく、この時期の患者の生活状況において貧しい娘という人物像を具現している人物、すなわち郵便局の所在地にいる宿屋の女中にほかならないということが、われわれには明らかになってくるからです。」(p. 65)

父親はその友人に金を借りて返さなかった。そこで患者もまた、寛容な人物に負債を負うことになる。寛容な人物とは、ヴィーン在住の患者の友人もそうであるが、郵便局の受付嬢もそこに重ね合わせられるべき人物である。患者は受付嬢のいる郵便局に戻ろうとするのだが、その願望に反して列車はヴィーンに向かってしまう。ラカンはここに、負債の返済先が、受付嬢が重ねられているところの「貧しい娘」に向いていると指摘している。そしてさらに、患者の向いている真の方向は、少しだけ登場した、「郵便局のある小さな町の旅館に美しい娘がいた」(フロイト著作集9、p. 255)と記述されている娘である、という。我々は9/17の記事(https://shanazawa4.wordpress.com/2024/09/17/2024-9-17/)で、受付嬢と旅館娘という二人の女が二者択一に割り当てられていたことに対して疑問を提出していた。というのも、ヴィーンと郵便局というのは方向的にも真反対なので対立的に扱えるが、この二人の女はどちらも郵便局のある町に住んでいるのであり、何が対立になっているのかよくわからなかったからである。ラカンは、この二人の娘をいずれも「貧しい娘」に割り当てているようである。そして、患者の空想においては「貧しい娘に対して負債を返済することが問題の真の核心になっている」と分析する。あるいは「金持ちの娘が貧しい娘に置き換えられている」とも言われる(新井訳、p. 65)。かつての父親は、貧しい娘が金持ちの娘に置き換えられていた。これが引き継がれながらも変換されて、逆転し、患者においては金持ちの娘が貧しい娘に置き換えられていたのである。返済先が反対である。


こうしてラカンは、「原初的状況」において「二重の負債」(p. 65)があると主張する。ただこれはわかりにくい。

「一つには、もはや消え去ってしまった人物に対する欲求不満、父親の去勢といってもよいような次元にあるものです。二つには、今や背景に退いてしまった友人という人物との関係で起こってくる、けっして解決を見ない社会的負債という側面です。」(p. 65)

これはつまり父親の神話における二重の負債ということだろうか。後者は、父親が実際に金を借りて返さないままだった「友人」である。これは返されずじまい(少なくとも、患者はその借金がどうなったかをとうとう聞かずに終わった)だったために、「けっして解決を見ない社会的負債」と言われているのだろう。前者の「もはや消え去ってしまった人物」とは誰のことだろうか?父親?しかしそれだと直後の「父親の去勢といってもよいような次元」というのと繋がりにくい。父親よりも力があって父親の威厳を低めた裕福な母親のことだろうか?よくわからない。

さらにラカンは、このように整理することで、「エディプス的三項関係とはまったく異なる関係が、原初的状況のうちにあることになります」ともいう。M・マリーニは『ラカン 思想・生涯・作品』(邦訳1989)の中で、これは父と母のそれぞれが二重化して生じた「四つ巴(四者関係)」であると述べている(マリーニ、p. 237)。そうなのだろうか。もしそうなら、父と母は二重化して何になっているのか?仮に四者関係だとすれば、患者、父、母、友人の4人、ではないのだろうか。また、最初の方に言われていた、患者の奇妙な解決策に登場するのも、患者、A中尉、受付嬢、B将校の4人である。

父が二重化したものが、患者と父であり(同一化されている)、母が二重化されたものが母と友人だろうか。友人は寛大で借金の返済先であり、母(金持ちの娘)は、貧しい娘に対して置き換えられた人物である(だが、母は別に返済先ではない)。父は、友人に借金をして返さず、母と性的に結合したことになる。父親は、金持ちの娘を選んだ(=「負債」を選んだ)。これに対して患者は貧しい娘に返済しようとした(=「返済」を選んだ?)。ダメだ、うまく整理できない。

ラカンは、「負債という要素が同時に二つの舞台に置かれるという状況がある」といっている。これは父親の舞台と患者の舞台という二つの舞台だろうか。そして神経症は、「この二つの舞台を一つに統合することが不可能だ」という事態の中で進行するのだとされる。反対に言えば、これを統合したところに治癒があるということだろうか。

次に、患者のフロイトに対する転移の場面に議論が移る。ラカンの分析によれば、フロイト自身は患者にとって、「友人(親友)」と置き換えられている。というのも、患者はフロイトのもとに症状を打ち明けに行ったのと同様に、ヴィーンへと列車で行ったときに友人の元に症状を打ち明けに行っていた、と考えることができるからである。フロイト自身は、患者がフロイトに自らの父親を転移させていた、と分析していた。しかしラカンによれば、それだけではない。フロイトは患者の「友人」に対しても置き換えられていたし、またこの「友人」は「金持ちの娘」に置き換えられていたことにもなる。なぜなら、患者はフロイトの家で出会った少女が、フロイトの娘であり(実際には違う)、フロイトが自分のことを娘婿にしたがっているのだと空想したからである。この空想において患者は、フロイトの娘(仮)を裕福だと考えている。

これはどうだろうか。フロイト=友人、フロイトの娘=金持ちの娘だとしても、そこから友人=金持ちの娘になるのは違うのではないか。かりにあっているとして、その置き換えが何を意味するのだろうか。

また、その娘に関する、例の、目のところが大便になっている夢を患者は見た。ラカンはこれを「大便の眼鏡」(新井訳、p. 66)と解釈している。なるほどたしかに。僕は9/16の記事(https://shanazawa4.wordpress.com/2024/09/16/2024-9-16/)で、「眼」が問題になっているのは患者の性的願望である「女の裸を見たい」に由来しているのではないかと推測したのだが、これを「眼」ではなく「眼鏡」と考えるなら、患者が紛失した「鼻眼鏡」との関連が出てくる。「大便の眼鏡」をかけた娘というのは、つまり金持ちの娘ということでもある。

「ですからこれは、フロイトという人物像に対して、保護者的であると同時に邪悪な、患者のナルシシスム的関係からいえば両義的な、大便の眼鏡ということからいうと象徴的な、一人の人物像がそこに置き換えられていることになります。これはまったく感動的な出来事といわなくてはなりません。それゆえ、ここにおいて初めて神話と空想とが接合することになるわけです。情動的体験が、現実になまなましく起っている体験つまり分析家との現実関係に結びついたときに、同一化の過程をさまざまに経て、問題解決の出口、踏切板が印づけられるのです。」(p. 66)

ここで言われている「一人の人物」とは誰のことであろうか。患者のフロイトに対する転移は、患者の治癒のきっかけ(フロイトの解釈の受け入れ)になった。ラカンはこれを「神話と空想とが接合することになる」と表現している。これはつまり、先ほど言われていた「二つの舞台」というのが統合された、ということなのだろうか。転移において、神話と空想という二つの舞台が統合される。それによって神経症は治療される、ということなのだろうか。

次いでラカンは、「一般に男性の心的平衡」つまり治癒?について、結論めいたことを言っている。

「一般に男性にとっての心的平衡という問題は、彼自身の機能をそれとして引受けること。したがって、自分の機能のうちでそれとして認められる限りでの自分の役割を引受けて、心的、精神的、倫理的に自立をはたすこと。さらに、葛藤を伴うことなく、労働に値するのは自分自身以外の誰かだと感じることなく、あるいは、その労働に値するとしてもまぐれ当りの結果にすぎないと感じたりすることなく、また、その人が自分自身の自我の行いから疎外された証人にすぎないといった内的分裂を存在させることなく、労働の成果を引受けられるという意味において、自己自身の労働を引受けるということ。そういった引受けの問題なのです。これが第一の要請です。第二の要請は、享楽ということにほかならず、ひとたび選択し、ひとたびその人の生活に入りこんでしまえば、安らかであると同時にそれ以外にはありえないと呼びうるような、性的対象の享楽がそれです。」(p. 67)

「引き受け」というのはなんとなくは分かる(ここではおそらくヘーゲルの労働論、主人と奴隷の弁証法や、フロイトの「徹底操作」が念頭に置かれていそうである)。ただ、第二の要請として「性的対象の享楽」があるのはどういうことなのだろうか。自らの役割を引き受け、性的対象を適切に享楽しているということが、心的平衡を取り戻すのに必要なのだろうか。

仮にそうだとすると、神経症者においてはこの二つの要請の間に何が起こっているのか。ラカンは、神経症者が自分自身の役割を引き受けようとする時、「分裂が生じてしまうのは性的対象なのです」(p. 67)と述べている。性的対象の分裂とはここでは、金持ちの娘or貧しい娘という二者択一である。

患者の現実的なパートナーとしては、貧しい恋人がいた。「このパートナーは、最もリアリティを備えていて、患者のすぐ傍にいる女性であり、一時的な関係に留まるにせよ結婚に行き着くにせよ、彼が最も正当な結びつきを持つべき人であるわけです」。しかし、患者は性的パートナーを二重化し、「金持ちの娘」という理想化された対象を空想的に追い求めることになる。ラカンはこれを「ナルシシスム的関係つまり本当のところは死の秩序に属する関係」と呼んでいる。「死」というのはよくわからないが、ナルシシズム的関係だというのは、フロイトの「ナルシシズムの導入に向けて」でも論じられていたように、理想的な女性に対するリビドー備給は、それを通じて自らの原初的なナルシシズムを回復しようとしているという意味では、ナルシシスティックな関係だ、ということであろう(なお、「ナルシシズムの導入に向けて」では、男性に多いとされる「委託型の対象選択」において、原初的ナルシシズムを回復させてくれそうな、母親の代理物を対象として選択し、強迫的にそれを追い求めると言われている)。

なぜこれが「死」の関係と言われているのだろうか。ラカンはその背景について語ってくれてはいないが、ここで患者に自己疎外が起こっていることを説明している。

「患者が自分の統一、自分の感性を取り戻そうとするとしても、その場合には、患者自身のうちには、もう一人の別の人物が現れてしまいます。この人物像との間に、またしても彼は死の関係としてのナルシシズム的関係を持つことになります。この人物像は、世界のうちでこのナルシシスム的関係を代表し、患者の生を委ねてしまう人物であり、彼自身にあらざる彼です。 そこでは、彼は自分が締出されていると感じ、自分自身の体験の外側にいると感じ、自分にこそ備わっているもの・自分みずから果さねばならないことを引き受けることができず、自分自身の機能・自分自身の実存に対して、自分がそぐわず、疎外感を感じます。かくして、この際限のない二者交替のなかで、袋小路が生じてしまうのです。」(新井訳、p. 68)

これは鏡像段階的な、自我の形成において働くナルシシズム的関係のことを言っているのではないかと思う。ナルシシズムと死。原初的なあり方とは死である。そこに帰還するような方向性を持った関係が、ナルシシズム的関係である。結局、正常な人間においては幼児期のナルシシズムが「自我理想」として代理されることになる。だが、ねずみ男においては何が起こっているのだろうか?

さて。ねずみ男の話はここまでで一旦終了し、後半部分はゲーテの『詩と真実』がまた検討される。『詩と真実』はねずみ男が共感を持って呼んだ作品でもあり、またフロイトが論文を書いているものでもある。ラカンがこれをどう分析し、ねずみ男とどう比較しているのか、また後ほど見ていこう。

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今日はレヴィ=ストロース『親族の基本構造』の読書会で第2章「インセスト問題」を読み終わった。議論をしていた気付いたのだが、ラカンがパロールの二つの機能として考えていた「創設的パロール」と「嘘のパロール」、あるいは「媒介」と「暴露」は、どちらも人類学的な由来を考えることができる。創設的パロールは他者との関係を、つまり社会関係を創設するということで前々から考えていたが、暴露の機能は単に精神分析や『機知』由来のものとしか考えていなかった。しかしこれは、人類学における「ペルソナ」の議論、あるいは女性や言葉が持つ「二重化された表象」の議論である。これで修論の方針はかたまった。マリノフスキーの言語論およびクラ論と、レーナルトの言語行為論、レヴィ=ストロースの互酬原理などからは創設的パロール、そしてレーナルトのペルソナ論、モースのペルソナ論、そしてレヴィ=ストロースの「二重化された表象」や顔面装飾論からは嘘のパロール、というふうに議論をつなげていく。したがって第四章をラカンのパロール論にして結論へと持っていくということにしよう。

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7/27(https://shanazawa4.wordpress.com/2024/07/27/2024-7-27/)および28日(https://shanazawa4.wordpress.com/2024/07/28/2024-7-28/)に、小田亮の論文「禁忌と意味生成——レヴィ=ストロースその可能性の中心」の読解を行なった。その後、ラカンとレヴィ=ストロースに関する先行研究としてメールマンMehlmanの論文を扱ったのだが、メールマンはレヴィ=ストロースにおけるシニフィアンとシニフィエが、ソシュールにおいてはシニフィアンとシニフィエではなく、むしろラングとパロールの対立にほかならないとして議論を進めていた。そこで小田亮も似たようなことを言っていたように思っていたのだが(https://shanazawa4.wordpress.com/2024/09/04/2024-9-4/)、実際に当該部分の記述を発見できた。なお、武蔵野市図書館の電子サービスで読んだので、頁数不明である。

「レヴィ=ストロースのこの『認識』の説明があたかもソシュールのいうシニフィアン-シニフィエの一体性を無視するかに見え、ソシュールを誤読したとされるゆえんだが、レヴィ=ストロースがいう『象徴体系と認識の対立』は、ソシュールでのラングとパロールの対立にほかならない。丸山圭三郎は、ラングとパロールをそれぞれ、<構成された構造>と<構成する構造=主体>と言い換えているが、レヴィ=ストロースがいう『認識』は、『自己補完的で完結した一つの全体性〔象徴的秩序:引用者注〕のただなかで、裁断法を修正し、再編成を行い、属性を決め、新たな可能性を発見することでだけ進行する』、<構成する構造=主体>の過程なのである(実際、人間の認識の実践がパロールでなくて何だろう)。」(小田)

そのほか、なぜか武蔵野市図書館にレヴィ=ストロースの著作が充実していることがわかったので、神話論理全巻、野生の思考、今日のトーテミズムなど予約した。

コードエディターとビジュアルエディターの併用は色々と不都合がある。

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“2024/9/20”. への1件のコメント

  1. 2024/9/24 – shanazawa.com

    […] フロイトが挙げる強迫神経症患者に共通するもう一つの性格は、「生活上の不確かさあるいは疑惑に対する要求」(p. 269)である。患者たちは生活の中ですすんで確実な情報源(時計など)を回避して不確かさを作り出し、自らを現実から引き離している(ゲーテが洗礼式そのものではなく、そこから疎外された「洗礼式のお菓子」の機能を持っているとするラカンの解釈とも関わりそうである)。そしてこうした態度が、9/20(https://shanazawa4.wordpress.com/2024/09/20/2024-9-20/)にも述べたように、父権的な「投企」へ一歩踏み出せない、その手前で留まるということにも帰着している。それゆえ彼らは、この「不確かさ」を象徴するような問題群、寿命や死後の生命・記憶などの問題に固執する。 […]

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2024/9/24 – shanazawa.com への返信 コメントをキャンセル