ミケル・ボルク=ヤコブセン(2008[1999], [原著1991])『ラカンの思想 現代フランス思想入門』、p. 228~56、を読解する。
「無意識は神話である」
この節は第5章「言葉で何もしない〔無を遂行する〕にはどうするか」の途中なのでそれまでの話の続きという扱いであるが、とにかく、ラカンにおいて治療の目標は、もはや隠されていた情動を解放したり、「除反応」(=「消散」)したりするものではない、とボルク=ヤコブセンはいう(この時点でラカンはレヴィ=ストロースから分岐したと言えるだろう)。なぜなら、ラカンにおける「欲望」は「無」であり、したがって人間主体とは、ボルク=ヤコブセンの言葉でいうなら「他者の欲望の中へと脱立ex-sistantした端的な無の超越」(ボルク=ヤコブセン、p. 229)だからである。
そして有名なテーゼ「無意識は言語として(のように)comme langage構造化されている」は、文字通り解釈されるべきだとボルク=ヤコブセンはいう。つまり、無意識=言語だ、ということ(commeを「として」と解したとも言える)。「つまり、言語『として』の無意識は、象徴的で比喩的な言語ではなく、言語そのものなのである」。
ここはボルク=ヤコブセンは一つの立場を取ったと言える(また、この立場は無意識を自己と他者を媒介するものと捉えたレヴィ=ストロースも属していたといえるかもしれない。メールマンMehlmanの『悲しき熱帯』読解を参照、https://shanazawa4.wordpress.com/2024/09/01/2024-9-1/)。これに対立する立場として、バンヴェニストのフロイト批判やそれを引用するリクール(『フロイトを読む』)は、無意識と言語を同一視することはできないと説いていたはずである。
そして、無意識が言語であることはまず第一に、「欲望の主体は『他者の言述〔ディスクール〕』の外では何ものでもなく、主体はこの『他者の言述』のなかで〔…〕常にすでに語られ、名付けられ、あらかじめ記載されている」(p. 230)ということを意味するらしい。なぜ直ちにそのようなことが導出されるのかはよくわからない。
しかしボルク=ヤコブセンは、ここで問題が生じるという。それは、「この主体の真実は、常に既に語られているとしても、必ずしも承認されているわけではない」(p. 231)ということである。つまり無意識は言語であって、「他者のディスクール」であって、そこにおいて常に既に主体は語られているのであるが、そのことと、その語りが「承認」されることは別であるという。そしてここで(も)レヴィ=ストロースとラカンとの違いが出てくる。
ボルク=ヤコブセンによれば、レヴィ=ストロースにおいて無意識は個人には干渉不可能なものであり、主体に関する「他者のディスクール」に対し、個人はそれをただ承認すること(「自らに課せられているこの種の『契約』を承認すること」、p. 231)しかできない。これは例えば自分が社会や親族の中で特定の地位、親族関係を占めるということについてそれを引き受けるということだろう。だが、ラカンにおいてはもう少し込み入っており、主体のあり方を語る「他者のディスクール」は「誤解される限りでの『他者の言述』」でしかないという。「もっと厳密に言えば、無意識とは、その中では私が自らを承認する(させる)ことができない他者の言述の一部である」(p. 231)。つまりラカンにおいては、お前はこうである、という主体の位置を定めるディスクールは、常に誤解されるものであり、本当の自分の位置というのはいつも手を逃れるものであり、したがって本当の承認というのが不可能であるような、そういうディスクールだということであろう。「自分はこうである、それを引き受ける」という私の承認は常に挫折する、やっぱりこうじゃなかった、となるということだろうか。
そしてレヴィ=ストロースにおける象徴システムと正常・異常の話に移っていくのであるが、ここでレヴィ=ストロースの「マルセル・モース著作集への序文」読解に繋がりそうな記述がある。レヴィ=ストロースにおいては、一つの社会の中にシステムが複数あり、それらは互いに矛盾した諸関係を持っていることもあるがゆえに、「どんな社会の全く完全に象徴的であることは決してない」、つまり完全に綺麗に整合的な象徴システムであるような社会は存在しないことになる(象徴システムを複数的に考えるレヴィ=ストロースに対して、ラカンの考える象徴システムは単一的だ、ということを誰かが言っていたような気がするが、どこだったか思い出せない⇦ボルク=ヤコブセンの注にあった。V・デコンブDescombesがこの違いを指摘している、p. 406。デコンブの論文L’Équivoque du symboliqueはかなり近いテーマを扱っており重要そう)。そして正常な個人が象徴体系を構成する要素となり、象徴体系から逸脱した異常な個人はこの正常なシステムに適用するよう強いられる。この時の象徴システムの現れ方に関するレヴィ=ストロースの記述が難しいのである(一昨日も扱った、https://shanazawa4.wordpress.com/2024/09/08/2024-9-8/)。
「社会は本質上その慣習や制度のなかに象徴的に表現されるものであるが、これに対して、正常な個人行動は、それ自体としてはけっして象徴的ではなく、象徴的システムが——これは集合的でしかありえない——それを起点としてつくりあげられている構成要素なのである。ただ、異常な行動だけは脱社会的なもの、いわば自己没入的abandonnées à elles-mêmesなものであるがゆえに、自律的な象徴性に支配される幻想illusionを個人の平面において現実化する。言いかえれば、異常な個人行動は、所与の社会集団のなかで象徴性の域に達しているのであるが、しかしそれは低い水準においてであり、いうなれば、所与の集団がそのなかに表現されているような状態に実際上通約することのできない〔計り知れない、共通の尺度がない〕incommensurable桁外れの状態においてそれに到達しているのである。それゆえ、一面では象徴的でありながら、他面では(本来)その集団のシステムと異なるシステムを表現している諸個人の精神病理学的行動は、集合的規模において実現されている正常な行動形式を漠然とは示していても(個人的・病理的であるがゆえに)、二重に弱められた——固有の象徴性とは異なる——ある種の象徴性のようなものを各社会に供することになるのは当然かつ不可避的である。」(「序文」、有地ら訳、p. 8-9)
まず、社会はその慣習や制度の中に象徴的に表現される。その社会が如何なるものであるのかというのは、例えばその社会が持つ儀式や法体系の中に象徴的に表現されているという。これに対して、正常な個人の行動は、それ自体としては象徴的でない、つまり正常な個人の行動には社会が表現されていない。正常な個人行動はむしろ、表現されるべき象徴を構成する要素なのである。ここだけでもかなり抽象的で雲を掴むような感触である。
これに対して異常者(精神疾患者やシャーマンなど)の行動は象徴性を有する。だがそこにはさまざまな留保がつく。まず「異常な行動だけは脱社会的なもの、いわば自己没入的なものであるがゆえに、自律的な象徴性に支配される幻想を個人の平面において現実化する」という点。なぜ脱社会的で自己没入的である「がゆえに」、なのか。なぜそれがゆえに、「幻想」を現実化するのか。まず幻想illusionとは何か。幻想というのが統一の幻想であるとすれば、社会は残念ながら数々の矛盾を含んだ完全には象徴的であり得ないシステムなのだから、異常者が個人の平面において完全なシステムという幻想を象徴的に表現している、と読むことができるのではないか(シャーマンは無意識を消散することによって共同体に再統一をもたらす神話を語り出すのであった)。メールマンが『悲しき熱帯』の読解を通じて論じていたことも、顔面装飾を通じたある理想、幻想、つまり自己と他者が真に繋がれる幻想の表現であった。ただ、これだとなぜ脱社会的・自己没入的「であるがゆえ」なのかはよくわからない。
とはいえ、そのような異常行動の象徴性は低い水準にとどまる。それはどういう意味でかというと、「所与の集団がそのなかに表現されているような状態に実際上通約することのできない〔計り知れない、共通の尺度がない〕incommensurable桁外れの状態においてそれに到達している」ということである。その異常個人が表現している象徴システムは、集団的なものとしては共役不可能なものである(まさに複数のシステムの翻訳不可能性、および翻訳の際に「非合理的な価値という常数を必要とする」ような状況といえよう)。それは、一方では集団にとってよそよそしいものであり、また他方ではそれ自体一個の完成されたシステムである。ここに、集団のシステムと異常個人のシステムという二つの象徴システムがあることになる(?)。
そして、これが個人的・病理的であるがゆえに(つまり集団的・正常的でないがゆえに)「二重に弱められた——固有の象徴性とは異なるdifférents du sien propre——ある種の象徴性〔意訳。実際には『等価物’équivalent』〕」を「各社会に供することになる」という。これはわかりにくい。「二重に弱められ」るというのは、集団的・正常的でないという否定的なニュアンス、象徴性の水準が低いということであろうか。「固有の象徴性とは異なるdifférents du sien propre」というのもよくわからない。異常個人が表現する象徴性は固有的なものではないのだろうか?
ボルク=ヤコブセンはレヴィ=ストロースの記述を引用し組み合わせながら、集団が異常個人に対して要求し、強制するようなこと、例えば「心の動きを偽って示す(想像的な推移を仮構)de feindre des transitions imaginaire」とか「両立不可能なものの総合」とかを、異常個人自身は上のような「二重に弱められた等価物〔象徴〕」を形成するという様式で遂行するのだと整理している。社会や集団が異常個人、精神疾患者に対して要求し、強制するところのこういった任務を、僕はてっきり現代文明社会において社会生活に無理やり適用させようとするということを表しているのだと思っていたが(実際邦訳はそういうニュアンスで訳している)、もしかしたらこれは未開社会において集団が呪術師やシャーマンに対して要求するようなことを表現していると読んだ方がいいのかもしれない。
このように考えると、異常個人やシャーマンは、集団の要請により、「彼らなりの仕方で〔…〕そうして象徴体系を逃れるもの、あるいはこの象徴体系が封鎖したものを象徴化しているのだ」(ボルク=ヤコブセン、p. 232)ということがわかる。社会の象徴システムから逸脱した個人は、その象徴システムが表現することのできない、象徴化できない事象を象徴化する役割を担っている。
次に進もう。ボルク=ヤコブセンによれば、ラカンはこうしたレヴィ=ストロースの図式を、神経症の「個人神話」という考え方に応用した。
「それでラカンの説明する通り、神経症は、「個人的神話」 (MIN の各所参照)として、すなわち集団的神話によって定義された象徴界の機能障害が引き起こした象徴的な下位システムとして理解される必要があることになる。」(ボルク=ヤコブセン、p. 233)
ボルク=ヤコブセンはねずみ男症例の話をしながら、この集団的神話と神経症における個人神話との関係を語っているが、この辺りはラカンの1953年の講演「神経症における<詩と真実>——神経症者の個人神話——」の内容である。のちに詳しく見たい。
そして、ラカンにおいては、「意識と無意識との二者択一」ではなく、「別の二者択一、つまり承認されるものと承認されないものとの二者択一」が問題であると言われる。これはどうだろうか。なぜボルク=ヤコブセンがそのように言うのかいまいち掴めないのだが、これはメールマンの二項図式からも(パルミエからも)さらに一歩進んだ解釈である。あるいは先ほど論じられていた、レヴィ=ストロースとの違い(レヴィ=ストロースにおいてはただ承認すること、これに対してラカンにおいてはその承認が常に誤りであること)とはどう繋がるのか?
そして、この承認される、されないということに関して、欲望が個人神話において語られたとしても、「この言語の中では、充実した真に象徴的な言葉という仕方では承認されていないこと」(p. 234)と言われる。これはよくわからない。個人神話が語り出されることと、「充実した真に象徴的な言葉」が語られることとは別のことなのだろうか?
そして分析家は「自ら自身がその代理者である象徴界によって正式に保証され証印が押されるという『逆転した形で』その言葉を患者に回帰させながら、そうした言葉を産むにとどまる」とも言われている。ここで充実したパロールの、語り手が自身のメッセージを「ひっくり返った形で」受け取るという性質が語られている。Dunandもまた、呪術的行為に関わる主体は「大文字の他者から自身のメッセージをひっくり返った形で受け取る」と語っていたのだが(Fink, B. et al, p. 105)、このような充実したパロールの語り手は、精神分析においては患者、呪術においては呪術師自身ということになるだろうか。ただ、ボルク=ヤコブセンが分析家を、象徴界の「代理者」であり、そのひっくり返ったメッセージを患者に発する立場だというのは、パルミエの議論と対立するように思われる。パルミエは次のように語っていた。
「われわれの意識生活に結びつけることはできないように見えるあらゆる行為と現象は、あたかも別の人格に属しているものとして判断しなければならないと、フロイドは繰り返し主張した。もちろん、このことは、意識と無意識との根本的区別を維持することがいかに必要であるかを示している。そこで、この別の人格にどのような地位を与えるべきかということが問題となる。ポリツェールが、そして、ある意味においてポール・リクールがやったように、この別の人格を分析者と同一視するなんてことは問題にならない。無意識は、第三者によって構成されるような一つの解釈学的実在ではない。無意識に認めるべき地位について言えることは、ただ、「エスはしゃべる」ということだけである。」(パルミエ、岸田訳、p. 219)
患者にメッセージを回帰させるような無意識の座を、分析家が占め代理するというボルク=ヤコブセンの記述は、パルミエからすれば批判されるものと思われる。では分析家とも同一視され得ないような「無意識」とは何なのか、という論点は残るわけであるが。
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フロイトの「ねずみ男症例」(「強迫神経症の一症例に関する考察」)(1909)を読み解く。
これまであまりフロイトの症例論をちゃんと読んだことがなく、しかしこれこそがフロイトの総本山でもあるということで、手薄さが心配だったのだが、今回ラカンとレヴィ=ストロースの関係を考察する中で、「神経症の個人神話」(1953)を読む必要が出てきた。神経症の「個人神話」は人類学的な共同体の「神話」とどのような関係にあるのか、ラカンは人類学の「神話」理論を、精神分析的にどう吸収したのか、そういったことを考えるためにも、まずはフロイトの「ねずみ男症例」をしっかり読む必要があるというモチベーションが湧いてきた(「神経症の個人神話」ではねずみ男症例をラカンが詳しく解釈していく)。現在はフロイトのメタサイコロジー読解がお休み中(修論をやらないといけない)であるが、この症例論読解もシリーズとして少しずつ始めていきたい。
・序言
この症例論には、実際の患者の症状経過と、強迫神経症の機制に関する考察が含まれている。ただ、患者の症状の経過やその分析をありのままに全て公開してしまうことはできない。
ここでフロイトは、プライベートな内容の公開に関する面白いパラドクスを指摘している。患者の生活状況について公開するにあたり、そこに何らかの歪曲を加えるということが利益をもたらすことは少ない。なぜなら、仮にその歪曲がわずかな程度である場合は歪曲の機能を果たすことができず、また歪曲が大きな程度に及んでしまうと、症例の報告をめちゃめちゃにしてしまうからである。また、患者の秘密に関してそれを公開するにあたり、それが大したことのない秘密であれば、そのような秘密は患者の周りの人が知っているような秘密であるから、かえってその症例の患者が誰であるか特定が容易になってしまう。反対にその秘密が重大で誰にも知られたくないものである場合、患者の近くの者でもそれを知る人がいないがゆえに、かえって患者が実際の誰であるかが誰にもわからないということもありうる。
フロイトはこれ以前に強迫神経症の治療に成功したことが一度もなかった(心理オフィスKの説明によれば、ねずみ男症例はフロイトの症例報告の中で唯一の成功例であるという、cf. https://s-office-k.com/professional/column/book/obsessional-neurosis)。フロイトの研究自体はヒステリーから始まっているが、ヒステリーと強迫神経症には違いがある。
「特に両者の著しい相違点は、強迫神経症の方が我々の理解ではとてもついていけないような、精神的なものから身体的な神経支配へのあの飛躍——ヒステリー的転換——を含まない点である。」(フロイト著作集9、p. 214)
ヒステリーにおいては無意識からの語りが身体症状、神経症状として転換されて身体に現れてくるが、強迫神経症ではそれがないということである。「強迫神経症の方言の方がヒステリーの言語よりも我々の意識的思考の表現に一層近いので、もっと簡単に理解できそうである」。
・第一部 病歴の報告 (a)治療の開始 まで
フロイトのもとを青年が訪れる。「父親と、自分が尊敬している一人の女性の身の上に何事かが起こりはしないかという恐怖心」(フロイト著作集9、p. 215)に苛まれている。そのほかにも「たとえば剃刀で自分の喉頭を切りはしないかといった『強迫衝動』」や、些細なことにいちいちつっかかってくる「禁止命令」がある。最初の訪問で青年は自分の性生活についてフロイトに話したが、それは以前にフロイトの『日常生活の精神病理学』を読んでフロイトの学説を少し知っていたからであった。
翌日の最初のセッション。フロイトは青年に対して自由連想の説明をする。
「あなたの頭に浮かんだ全てを私に話してください。たとえそれが不愉快なことであろうと取るに足らないことに思われようと、今の問題には関係がないあるいは無意味なことに思われようとも、とにかくそれらの一切を私に話すことを約束してください。 そのかわりそれをどんなテーマで語ろうと、それはあなたの頭に浮かぶままで差し支えありません。」(p. 216)
ここでフロイトは原注として、セッションの記録に関する簡単だが興味深いことを書いている。すなわち、フロイトはセッション時には記録を取らず、その日の晩にセッションのことを忠実に思い出して記録するというのである。なぜなら、セッション中に記録を取ることで患者に対する注意が損なわれることは「はなはだしい弊害をもたらす」からである。「その悪影響は病歴の記録がどんなに正確にとれても、とてもそれによっては償い得ないほどのものである」(p. 216)。これは授業中のノート取るべきか取らないべきか論争においても参考になりそうである。
青年は明敏な頭脳の持ち主であるらしく、友人から励ましを受けてきてもいた。だが彼が14,15歳の時に家庭教師になった19歳の学生は、最初彼のことを励まして自尊心を支えていたにもかかわらず、やがて一転して彼を低脳だと決めつけるようになる。しかも彼が青年の家庭教師になったのは、青年の姉妹の一人に想いを寄せて、その想い他人に近づく口実としてだったのだ。それを知って青年は大きなショックを受けた、ということがわかった。
さらに青年は次のことを語り出した。
・(b)幼児期の性生活
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