2024/8/29

前の記事、次の記事のジャンプできるリンクの貼り方がわかったので少し見やすくなりました。

先行研究の集め方や組み込み方、研究の手順など少しずつ構築されてきたので、修論に向けてレヴィ=ストロースの章を書き足して行こうと思う。調べたら、70年台からそこそこの量の先行研究(ラカンとレヴィ=ストロースについて)があるようだ。これを使って書く。すでにマリノフスキーの章はあらかた書き上がっているが、もしレヴィ=ストロースの章だけで分量が膨れ上がったら、これだけで修論にしてしまってもよい。レーナルトは、当分は放置でいいや。レヴィ=ストロースへの興味はまだあるので、そちらを掘り下げつつ、途中経過をラカンとレヴィ=ストロースというテーマで学会発表も組めたらベストである。今のところ確認できている先行研究は以下のものがある。

  • 日本語および邦訳
    • ジャン=ミシェル・パルミエ(1977[原著1970])『ラカン 象徴的なものと想像的なもの』補遺「ラカンとレヴィ=ストロース」
    • ミケル・ボルク・ヤコブセン(2008[1999], [原著1991])『ラカンの思想 現代フランス思想入門』、第五章「言葉でなにもしないにはどうするか」、「無意識は神話である」「呪術師とその魔術」、p. 228~
    • 新宮&立木『フロイト=ラカン』(2005)第五章「貨幣論とフロイト=ラカン」
    • 原和之_2008_「コードの複数性」の二側面_レヴィ=ストロースとラカン
    • 松本_2018_ラカンにおける構造と歴史、シニフィアンの論理について
    • 岡安裕介_2020_言語伝承と無意識 : 精神分析としての民俗学
    • 河野_2022_ラカンと社会的なもの_モースとレヴィ=ストロース
    • 河野_2023_レヴィ=ストロースの読者、ラカン
  • 英仏圏
    • Mehlman.(1972) Floating Signifier Levi-Strauss
    • ROBERT GEORGIN.(1983) DE LEVI-STRAUSS A LACAN (図書館あり)
    • Frederick, J. F. (1989). Myth and Repetition: The Ground of Ideality in Lévi-Strauss and Lacan. Journal of the British Society for Phenomenology20(2), 115–123. https://doi.org/10.1080/00071773.1989.11006834
    • Fink, B. et al.(1996) Reading Seminars 1 and 2, p. 98~, Anne Dunand. Lacan and Levi-Strauss
    • Alain Delrieu.(1999) Levi-Strauss lecteur de Freud
    • Zafiropoulos, M.(2003) Lacan et Lévi- Strauss ou le retour à Freud, 1951- 1957. P.U.F. (英訳Lacan and Levi-Strauss or The Return to Freud (1951-1957))
    • Marcel Drach, Bernard Toboul.(2008) L’anthropologie de Lévi-Strauss et la psychanalyse
    • Simonis, Yvan_A Way of Comparing Levi-Strauss and Lacan_Konturen: Vol 3 (2010) [13]Borderlines in Psychoanalysis
    • Basualdo, C.(2011) Lacan (Freud), Lévi- Strauss : chronique d’une rencontre ratée. Bord de l’eau.
    • Juan Pablo Lucchelli_De Lévi-Strauss à Lacan et retour From Lévi-Strauss to Lacan and return_L’Évolution Psychiatrique_Volume 77, Issue 4, October–December 2012, Pages 557-564
    • Juan Pablo Lucchelli.(2014) Lacan avec et sans Levi-strauss

フロイト=ラカンのメタサイコロジー読解と並行して、これらの論文も見ていく。

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「夢理論のメタ心理学的補遺」(1916)をもう少し見よう。単純な夢理論であった、無意識の潜在思想→意識の顕在夢というモデルを精密化すると、そこに「前意識の潜在思想」なるものが導入されなけてればならない。そしてこの、前意識における潜在思想は夢形成の素材となる「日中残滓」であるらしい。どういうことか。

睡眠中は「原始的自己愛」の状態になり、あらゆるエネルギーの備給が自我へと撤収される(大規模な「逆備給」)。しかし、抑圧された結果自我の支配を逃れている無意識の要素は、その逆備給の影響を免れて備給を保っている。そして、夜の間は無意識と前意識の間の検閲力が弱まるため、無意識と前意識との間の交通が容易になり、前意識中の日中残滓が無意識から強化を受け、エネルギー備給を保持することができる。こうして、睡眠中の自己愛に対して抵抗する勢力が、無意識と前意識に存在することになる。そしてこのことが、夢形成を可能にするような条件になっている。

「あるいは少し難しく言うと、完全には空にならなかった日中残滓は前意識と無意識の間の連絡が要因になったおかげで、睡眠状態で初めて抑圧されたものと関係を結ぶようになる。この2つの場合とも、次のような夢形成の決定的な発達をもたらす。つまり前意識の日中残滓の素材の中で、無意識の働きを表すいわゆる前意識の夢願望が形成されるわけである。 この夢願望は日中残滓とは明確に区別されなければならない。夢願望は覚醒時の生活の中には存在するはずはなく、夢願望はあらゆる無意識が持つ非合理的性格を、無意識を意識に置き換えるときに示すことができる。 夢願望はまた前意識の潜在的夢の思考の中に存在するかもしれないが、偶然性はあっても、必然性のない願望の働きとは決して混同してはいけない。しかし、そうした前意識願望があれば、夢願望はもっと有効な強化法としてそれらに加わってくる。」(フロイト著作集10、p. 318)

無意識と前意識が互いにアクセスすることによって、無意識の働きを「前意識の夢願望」が代表するようになる。そして前意識の夢願望は日中残滓をその素材とする。フロイトによれば、前意識の夢願望は前意識の日中残滓とは区別されなければならない。前意識の夢願望が覚醒時に存在するはずがないのは、おそらく、睡眠時でないと無意識と前意識の連絡が成立しない(検閲が働くため)からであると思われる。

無意識の要素は、必ず前意識を通ってから意識に影響を与える。したがってそこで前意識の要素がどう働いているのかが、今考えていることである。

後半部分はわかりにくい。無意識が持つ非合理的性格を、前意識の夢願望は表すことができる?そもそも、ここで「夢願望」と言われているものと「前意識の夢願望」は同じものか?違うものか?「無意識の夢願望」も存在するのか?また、「偶然性はあっても、必然性のない願望の働き」とはなんのことか?日中残滓のことだろうか?「前意識の夢願望」と「前意識の夢の思考(=日中残滓)」が区別されなければならないということだろうか。そして「前意識の夢願望」の方は、直後に言われるように「本質的に一つの無意識的欲動要求を代表するこの欲望」と言われているように、無意識の「欲動要求」と結びついたものである。つまり、「無意識の欲望要求」が「前意識の夢願望」となって前意識に表れ、「日中残滓(前意識の夢の思考)」を素材にしてこれを組み立てて、夢を形成する、という順序だろうか。

『夢判断』第7章「夢事象の心理学」に戻ろう。

夜の間に無意識と前意識の間の交通が盛んになることによって、無意識の欲動要求が前意識を通って(前意識の日中残滓を媒介にして)意識表面へ浮上してくる、という夢形成の説明。しかしフロイトは、このような方向での夢形成の説明では、「『アウトディダスカー』の夢の如きものを説明するに過ぎず、我々が問題としてこの論文の冒頭に据え置いた『火傷する子供』の夢のような夢を説明することはできない。」(フロイト著作集2、p. 446)と言う。

「アウトディダスカーAutodidasker」の夢は、「圧縮」の作業の一例としてフロイト自身が見た夢である(cf. フロイト著作集2、p. 249-252)。この夢は二つの部分から構成されている。一つは「アウトディダスカー(アウトーディダスケル)Autodidasker」という造語で、もう一つは、フロイト自身がN教授に「『先日あなたにその病状のことでご相談申し上げたあの患者は、全くあなたがご推察なさった通り、実際はある神経症にかかっていたに過ぎなかったのです』と言わなければなるまい」という内容である。これはつい数日前に、フロイトが考えていたことがそのまま夢に表れた内容であるという。この「Autodidasker」は「ラスケルLasker」と「ラッサールLassalle」という二人の人物に関連する語から圧縮的に生成された新語であるが、諸々省いて言えば、ある「二者択一の対立的二項」を表現する夢であると分析された。

そして「Autodidasker」と「火傷をする子供」の夢は、「火傷をする子供」の夢が幻覚的な性格を持つ夢であるのに対して、「Autodidasker」はそうではないという。「火傷をする子供」が幻覚的な性格を持つというのはわかる。死んだはずの息子がそばに立っていたり、腕を掴まれたりというのは幻覚的な体験とも類似している。では、「Autodidasker」は幻覚的ではないのだろうか?「Autodidasker」の夢を構成する部分の一つは圧縮語の「Autodidasker」であり、これは幻覚的ではない。また、第二の部分であるN教授への伝えごとは、これもまた幻覚的ではないということであろう。というのも、それは実際にN教授にそのことを伝える場面を幻覚的に夢に見たわけではなく、そのように「と言わなければなるまい」という内容だったからである(そのような夢がどのように表象されるのかはよくわからないが)。そういった仕方で、フロイトによれば幻覚的な性格を持つ夢とそうでない夢があるということになるようだ。

そして、夜の間検閲が弱まって、無意識と前意識の交通が可能になったことによって、前意識を媒介して意識表面に浮上するという形式の夢形成は、フロイトによれば幻覚的性格を持たない夢の形成になるのだという。では、幻覚的性格を持つ夢はその心的装置において、どのような経路で形成されるのか。

「幻覚的な夢の中において起こる過程は、次のごとく記述されるよりほかないと思う。つまり『興奮は逆行的な途を採る』のである。興奮は心の運動末端の方へ向かって移動していく代わりに、知覚末端の方へ向かって移動していく。そして最後に知覚組織に到達する。心的過程が無意識から覚醒時中にあって動いていくような方向を前進的方向と名付けるなら、我々は夢について、夢は退行的性格を持つと言って差し支えない。」(p. 446)

幻覚的性格を持つ夢は、無意識→前意識→運動末端という右方向の前進的方向ではなく、むしろ左方向の退行的方向に心的過程が動いていくというのである。そして最後に知覚組織Wに到達することによって、我々は夢を「感じる」「体験する」のである。本当に目の前に光があるわけではないのに、夢の中で「まぶしさ」を感じたりする、あるいは浮遊感や、僕であれば時には、落下する時の無重力感を感じたりもする。そのような幻覚的性格は、夢形成の過程が「退行」的性格を持つことに起因する。

フロイトによれば、夢形成だけがこの退行的性格を持つのではない。正常な心的過程として、例えば「意識的想起」の過程もまた、ある意味では「なんらかの複雑な表象行為から、その行為の根底に存する記憶痕跡の素材への退行と同じもの」(p. 446)である。しかし、それは「決して記憶形象を飛び越して進むことはない」。つまりある種の覚醒時の想起作業が心的装置を逆行して記憶表象にまでアクセスすることはありうる。しかし、それが記憶組織Erを通過して知覚組織にまで到達することは、通常はあり得ない。それが、記憶を思い出す時にはその記憶を感性的に体験することはない、ということの別の説明である。火傷の思い出を思い出して本当に火傷の熱さや痛みを知覚したなら、それはもはや幻覚や夢である。

そして、夢が一見すると荒唐無稽な非論理性を持っていることは、「 夢思想の構造は退行に際して解体し、夢思想はその元の素材に還ってしまう」(p. 447)と説明される。つまり、夢の潜在思想が持つ論理性は、記憶組織Erよりもさらに後の組織(無意識だろうか?それとも前意識?)に存在するものなので、退行的過程が記憶組織を通過していく中で、その論理性が解体され、知覚組織に到達するころには荒唐無稽なものになってしまっている。

したがって、ヒステリーやパラノイアにおいて見られる幻覚や幻影は、こうした退行によるものと考えられる。

「つまり、それらは、形象に変化させられた思想や観念であり、その場合、抑圧された記憶ないしは無意識のままでとどまっている記憶と密接な関連にある思想や観念のみが、こういう変化を受けるのである。」(p. 447)

なるほど、次のようにまとめられるだろうか。退行的過程の中で、論理的関係を持った思想や観念がその論理性を解体され、一つ一つの単なる感覚的質になって知覚組織に到達する。しかし、そのようにして退行的に移動する素材というのは前意識中にある日中残滓(=前意識の思考)であり、これが夜間の前意識と無意識の間の連絡がスムーズになった時に(あるいは覚醒時でもなんらかの疾患により)、前意識→無意識→記憶組織へと退行していく。そして、無意識を通過する際に、無意識中に抑圧された記憶と関連を持つ「前意識の思考」が、記憶表象に代理され、その記憶の感覚的表象が前意識の思考の代わりに知覚組織に移動する、と。

だから、「Autodidasker」の夢ではほとんど歪曲が存在しなかったのである(圧縮はあったが…)。それは前進的方向で形成される夢であるため、論理性が解体されず、日中残滓(N教授に「…」と伝えなければ、という思考)がそのまま意識化され夢になったということであろう。これに対して退行的性格=幻覚的性格を持つ夢では、前意識の思考が無意識中の記憶との関連の中でさまざまな加工や代理を受けるため、荒唐無稽で非論理的な夢になる、ということではないか。

そして、前意識の日中残滓が無意識を通過する際に影響を受けるところの、無意識の抑圧された記憶とは、幼児期の記憶である。「夢思想において、幼児期体験、ないしは、それに基づく空想が、いかなる役割を果たすか、幼児期体験の一部が夢内容中いかにしばしば再び姿を表すものであるか、夢願望そのものが、いかにしばしば幼児期体験から導き出されるか」(p. 449)。それゆえ、この幼児期体験と関連を持った日中残滓(前意識の夢思想)が、記憶組織へと進んでいくことになるだろう(あるいは記憶組織で形象化を受ける段階へと進むことができる)。

「こういう見解に従えば、夢はまた、最近時的なものへの転移によって変化させられたところの幼児期場面の代用物と見ることもできるであろう。 幼児期場面は、そのままでは現在に復活させられない。それは夢として復活することに甘んじなければならない。」(p. 449)

「最近時的なもの」とは前意識の日中残滓であろう。幼児期場面は、日中残滓にその備給が転移して代理され、夢の中に現れることによって自らの存在を示す。

なんとなく見えてきてはいるが、細かな部分はまだ曖昧である。論理的関係は無意識の記憶にあるのか、前意識の思考にあるのか。日中残滓が「前意識の思考」と呼ばれるのはなぜなのか。それと区別される「前意識の夢願望」とはなんなのか。夢の潜在思想は前意識にあるのか、それは「前意識の思考」と「前意識の夢願望」のどちらなのか…

こうして、フロイトが夢の作業の第三のものとして挙げていた「形象化可能性への顧慮(表現可能性への顧慮)」もまた、夢形成の退行的性格からくるものである(つまり夢の思考が記憶組織の形象によって代理される)ことがわかる。

なお、この点に関して「夢理論のメタ心理学的補遺」(1916)では次のように説明されていたのが興味深い。

「どんな方法で前意識の日中残滓の退行が夢形成の際に起こるかは『夢判断』で知られている。その際思考は——特に視覚的——映像に変換される。かくして言語表象はそれに相当する事物表象に引き戻され。、あたかも全体的に描写性への配慮がその過程を支配する可能ようである。… 夢の作業が言語表象を保持することがいかに少ないかと言う事はすこぶる注目に値する。」(フロイト著作集10、p. 319)

ここでは前意識の日中残滓の中に存在する「言語表象」(あるいは「語表象」)という新しい概念が導入されており、この「言語表象」から「事物表象」への引き戻しが、形象化可能性への顧慮のプロセスとして記述されている。思想や論理というのは、「言語表象」として前意識に蓄えられているのだろうか?

この節「退行」の最後にようやく来れた。最後にフロイトは、退行に三種類のものを区別する。

  1. 場所的退行:P組織(心的装置)の図式における場所的な意味での退行。
  2. 時間的退行:過去の心的形成物への立ち戻りという意味での退行。
  3. 形式的退行:原始的表出方法や描写方法が普通の表出・描写方法の代理をつとめるという意味での退行。

これらの三つの種類は、「退行」という一つの過程の三つの側面であって、全て同じものである。そしてこの節の最後にフロイト付言するところによれば、夢を見るということには以上のような原始的状態への退行性があるのであって、そこでは「系統発生的な幼年期、つまり人類の発展が顔をのぞかせているのである」(フロイト著作集2、p. 451)。

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