2024/8/28

『夢解釈』第7章「夢事象の心理学」のB節「退行」の続きから見ていくが、8/12の読解(https://shanazawa4.wordpress.com/2024/08/12/2024-8-12/)に関して若干訂正するところがある。

まず、フロイトによればW組織(=知覚-意識)は記憶痕跡を残すことができず、しかしそれによって新しい知覚を絶えず受け入れることができるのであった。そしてこのシステムにおいて、我々はさまざまな「感性的な質sinnliche Qualität」をも感じる。おそらく、熱いとか痛いとか。しかし、無意識に保存された記憶が意識化された時には、我々はその記憶にまつわる「質」を感じることはない。そこから、フロイト著作集2の日本語訳では次のようにフロイトの言葉が翻訳されていた。

「そこでもし、記憶と記憶に伴う質とがP組織〔心の組織〕において意識に対して相互排他的だということが実証されるならば、神経興奮の諸条件への、将来有望な洞察の道が開けることであろう*。
*私はのちに、意識はまさに記憶痕跡の代わりに発生すると考えるに至った(全集第14巻の『ヴンダーブロックに関する覚書』〔1925年〕を参照)。」(p. 444)

これを私は、記憶(があることを)を思い出す時にはその記憶に関する感性的な質を知覚することはなく、記憶を感性的に体験するとき(夢や幻覚など)にはその記憶(があること)を思い出してはいない、という相互排他性のことだと解釈していた。このこと自体はそれほど間違ってもいないと思う。しかし、ドイツ語の原文を確認すると、「記憶に伴う質」と訳されている部分は単に「質Qualität」であった。つまり、正しい訳は「記憶とがψシステムにおいて意識に対して〔意識にとって〕相互に排他的であるGedächtnis und Qualität für das Bewußtsein an den ψ-Systemen einander ausschließen」となる。

このように理解することで、原注にある「ヴンダーブロック(マジックメモ)」の言及も整合する。意識は記憶痕跡を保持できない。なぜなら痕跡を保持し続けていたら新しい知覚を受け入れることができないからである。したがって、意識は感性的な質を感じることができる<代わり>に、記憶痕跡を保持することはできない。逆から見れば、記憶痕跡の<代わりに>、意識という特性が可能となる。

とはいえ、上に挙げた引用は、「無意識の記憶の意識化」ということを言っているのであって、意識と記憶の交差点のような話をしているとも読める。意識は記憶を保存することができない、しかし記憶を意識化するというのは実際にある。そしてそのような時には、意識に感性的な質が表れることはない。まあそのように考えると、日本語訳が「記憶に伴う質」としているのは、内容的には間違っていないのかもしれない。

この続きの部分を読んでいこう。正直、このB節「退行」は非常に難しい。ゆっくり丁寧に見ていきたい。

まず、検閲について述べられる。

「批判を加える側の検閲所Die kritisierende Instanzは、批判を加えられる検問所die kritisierteよりも、意識に対してより親密な関係を保っていると我々は推論した。前者は後者と意識との間に屏風のように立っている。」(フロイト著作集2、p. 444)

検閲については、無意識の要素が意識化されるにあたって働いていたり、夢思想が顕在夢として浮上してくる際に働く作用である。ここの日本語訳はわかりにくいが、「検閲所」と「検問所」とは同じ「Instanz(en)」の訳語である。数ページ前に、心的装置の諸部分を「検問所Instanzen」(=審級)と呼ぶ、とフロイトが規定していた(p. 441)。そして、心的装置の諸部分の中には、「批判を加える」ものと「批判を加えられる」ものがあるという。そして、批判を加える審級は、意識の近くにあって、批判を加えられる審級と意識の中間地帯に位置している。

「批判を加えられる審級」ー「批判を加える審級」ー「意識」

そして、「批判を加える組織は運動末端近くにあるものと想定される」(p. 444)。つまり、批判を加える審級の検閲の目をかいくぐった要素が運動末端へと通行することができる。ただ、この「運動末端」とは何なのか。フロイトはこの心的装置を「反射」過程をモデルに考えている(cf. p. 442)が、それでいえば、光を当てられたら瞳孔が収縮するとか、熱いものに触れたら身体が即座に動くとか、そういうことをイメージしているのだろうか?ただし、検閲の目を通過した心的な要素が運動末端にたどり着くと、何がどうなるのだろうか?はっきりしない。

以上のことを、フロイトは改めて図にまとめている。下図。

「運動末端に位置する諸組織中、その最後のものをわれわれは前意識(Vbw)と名づける。」(p. 445)

なぜ「前意識」は運動末端の最も近くに位置するのか。そもそも、前意識にある要素というのは、無意識とは違って意識的操作によって取り出すことの可能な要素である。例えば「注意」によって、今まで意識していなかった知覚の一部を意識化することができる。ここからフロイトは、「それは同時に、随意的運動力への鍵を握っているところの組織でもある」と述べており、つまりは随意的に要素を意識表面へと上らせることができるということが、前意識を運動末端の近くに置いた理由とされる。意識表面へ上らせた観念が、最終的に運動末端において行為へと転化されるということだろうか。

前意識の背後に来るのが「無意識」である。このことは、無意識の要素は必ず前意識を通過して、意識へ至るということである。そしてその際には「その興奮過程は諸種の変更を甘受しなければならない」(p. 445)。これはおそらく検閲の働きを意味していて、無意識の要素が検閲の働きを通過して(あるいはそれによって歪曲を通過して)、前意識の領野に入ってくるということである。フロイトによれば、これまで繰り返してきたように、前意識に続いて「意識」があるのだが、フロイトは「知覚末端=意識(W-Bw)という仮定を考慮に入れなければならないだろう」と言う。これがよくわからない。前意識よりさらに右側末端に意識がくると言うのに、なぜそれが左末端の知覚組織Wとイコールで結ばれるのだろうか。

まずこの心的装置の順行は左から右に向かって進む。まずW組織で知覚し、その痕跡は知覚には残らずに記憶組織へと移行して蓄積される。そして記憶組織がいくつも続いて(「…」)、無意識、前意識、運動末端へと放出されるルートがある。まず、記憶組織と無意識は区別されているのだろうか?フロイトは無意識に抑圧された記憶が存在すると考えているらしいが…。

これを反射モデルで考えるなら、ある刺激を受け取って、それに対する反応として無意識の要素が前意識化され、やがては意識化される、と考えれば良いのだろうか。その場合は、この心的装置を一つの要素が移動していくというよりも、左半分が感受する装置で、右半分が反応する装置だというように分けられることになる。

とりあえず先に進んでみよう。フロイトはここで夢の話をする。夢を見るというのを、この心的装置の中でどのように説明できるだろうか。

「以上の諸組織中のどれに、我々は夢形成への動因を求めるべきか、簡単に言えば、それは組織Ubw(無意識)である。これについては述べようと思うが、実はそういっては正しくないので、夢形成は前意識の組織に属するところの夢思想に結びつくべく余儀なくされているのである。 しかしまた我々は夢願望を論ずる別の箇所で、夢の原動力は無意識から援助を受けると言うことを知るであろう。」(p. 445)

夢形成の動因が無意識にあるというのはわかる。ただ、それは厳密ではないという。夢形成の動員は無意識にあるのだが、厳密にいえば、それは前意識に属する夢思想に結びついて、これに援助しているとされる。これまでの夢判断の内容では、無意識の潜在思想が歪曲を受けて顕在夢として意識化される、と論じられていた。しかしここでそれを厳密化すると、「前意識の夢思想」ともいうべき新しい概念が登場することになる。

覚醒時には、「前意識を通過して、意識に至るこの道は塞がれている」(p. 445)。つまり検閲の目が働いて、無意識から前意識を通って意識へ要素を上らせる過程が塞がれている(つまりここから、検閲の審級は無意識と前意識の中間にあることがわかる)。そして無意識と前意識との間を検閲する力は、睡眠時にはその力を弱めるのだとされる。

この辺りの話は、フロイトの1916年の論文「夢理論のメタ心理学的補遺」でも論じられていた。この論文は幻覚の問題を「退行」の問題と見做して分析している点で、今我々が読んでいるB節「退行」とも関わりが深い。ちなみに、ラカンはセミネール1巻「フロイトの技法論」の最後の方でこの「メタ心理学的補遺」の読解を行なっている。

「夢理論のメタ心理学的補遺」ではまず、人が睡眠中夢を見る時には、「時間的退行」すなわち発育過程における幼児期状態への退行があると述べられる。人は眠っている間は赤ん坊のような状態になるというのである。そしてこの時間的退行は「自我発達」と「リビドー発達」の二つの退行に区別することができ、自我発達においては「幻覚的な願望充足」の段階への退行が、リビドー発達においては「原始的自己愛」の形成への退行が起こる(フロイト著作集10、p. 315)。

「幻覚的な願望充足」への退行とは何か。フロイトによれば、赤ん坊の時代には、人は願望が充足されない時にそれを幻覚的に補おうとする。たとえばミルクが飲みたい時にあたかもミルクを飲んでいるかのような幻覚を見ることによってその願望を充足させようとしたりするということと思われる。しかし、それでは生きていくことができないので、「現実吟味」によって、つまり実際に現実にミルクを獲得するべく行動することになる。ここには快感原則から現実原則が生まれる過程がある。また、満たされない願望の幻覚的な充足というモチーフは、夢をみる動機にも深い関わりがある。夢は願望充足である、とフロイトは主張する。そして、人は睡眠時には、願望を現実において充足するよりも(つまりわざわざ覚醒してミルクを取りにいくよりも)、夢において幻覚的にそれを充足する方を選ぶ(ここには「眠りたいという願望」という大問題があるのだが…)。人は夢を見るときに、現実吟味による願望充足よりも、幻覚的な願望充足という幼児の時代の充足様式を再び用いていることになるのである。

このことは、眠り続けるということにも役立つ。眠っている時の外的刺激はその人を覚醒へと促すのであるが、その人は覚醒するよりもむしろその外的刺激を夢の中で再生することによって、つまり夢を見ることによって、眠り続けることができる。眠っている時に漂ってくるケーキのいい香りは、その人を覚醒させてケーキを取りに行かせるよりも、夢の中でケーキを食べさせるのである。これは内的刺激についても当てはまる。内的刺激(あるいは内的興奮)もまた覚醒を促すが、それをも人は夢に見ることによって処理する。この時、「投影」が起きていることが理解される。つまり内的な衝動は夢の中で外的刺激として感覚されるのである。これは「快感原則の彼岸」においても論じられていた、刺激保護の効かない内的刺激(つまり自分の力でコントロールできない)をあたかも外的刺激のように(つまりコントロール可能なもののように)取り扱う「投影(投射)Projektion」と同じである(https://shanazawa4.wordpress.com/2024/08/26/2024-8-26/)。

次にフロイトは、「いったいどのような方法で眠ろうとする意図が妨げられるような状況が起こり得るのだろうか?」(フロイト著作集10p. 316)と問う。そしてある特殊な内的刺激について考える。その刺激物とは「日中残滓」である。日中残滓とは覚醒中に経験した知覚素材である。夢の形成にあたってはこの日中残滓物が素材となって組み立てられるため、夢にはその日会った人や聞いた言葉、見たイメージが登場することが多い。(だとすると、日中残滓が眠ろうとする意図を妨害する刺激物になるとはどういうことだろうか?それは自己愛状態の大規模な逆備給に反する、例外的な備給があるということだろうか?)

しかしここで問題がある。先に言及した二つの退行のうちの「原始的自己愛」への退行である。これは睡眠時の心の根本的な自己愛を意味しており、エネルギーの備給が自分自身へと集中され、逆に外界の知覚などからはエネルギーの備給が撤収されている(逆備給)。これによって睡眠時は外的刺激に対して関心を示すことがない。また、「逆備給」(=備給の撤収)は「快感原則の彼岸」でも、刺激保護を突破するような強い刺激が侵入して内部組織を破壊した場合に、その組織周辺にエネルギーの大規模な集中が起こり、そのために他の組織からでは大規模な「逆備給」が起こると言われていた。たしか「ナルシシズム入門(ナルシシズムの導入に向けて)」(1914)においても、虫歯の人は歯が痛いことに意識が集中していて他のことに関心を示さなくなる、という例が挙げられて、精神病者に見られるナルシシズム(つまり自己愛)に重ねられていた。

問題は、睡眠時の原始的自己愛状態にもかかわらず、なぜ日中残滓にエネルギーの備給が維持されているのかということである。つまり、睡眠ということと夢を見るということの間には、エネルギーの撤収(睡眠時の自己愛)と備給(夢という擬似外的経験へのエネルギー備給)の間に矛盾があるのである。フロイトはこの矛盾を考えようとしている。「したがって、睡眠の自己愛は、ここでは初めから1つの例外を許さねばならなかったし、この例外によって夢の形成が始まるのである」(p. 316)。

ところで、日中残滓は「前意識」に属する表象である。ここでフロイトは「この日中残滓は潜在的夢思考として知られ」(p. 316-7)と言うのであるが、ここが引っかかる。潜在的な夢思考は無意識に属するものではなかったか?それが、一般的なフロイトの夢理論の理解だったはずである。しかし、ここにまさに、上で述べた「前意識における夢思考」というのが出てきているのである。前意識に存在する「思考(ないし思想)」とはなんなのだろうか。

先に進もう。「睡眠状態の自己愛は、上述のようにすべての対象概念、すなわちそれらの無意識的ならびに前意識的部分からの備給の撤収を意味している」(p. 317)。これは先ほど述べたことである。だが、どうやらエネルギーは外的対象のみならず、無意識や前意識からも撤収されるらしい。では、撤収されたエネルギーはどこに集まるのか。つまり「自己愛」において愛されているのは何なのか?意識か?自我か?自我はどこにあるのか?

しかしながらともかく、日中残滓から夢が作られるためには前意識中の日中残滓にエネルギーの備給が保持されていなければならない。しかし、それはどのようにしてだろうか?夜になることで日中残滓に備給されるとは考えづらい。なぜなら、ただでさえ夜の対象備給は日中よりも弱まっているはずなのだから。そこでフロイトはこう考える。

「こういう日中残滓がもしも夢の形成者として登場するものとすれば、この日中残滓は、無意識の欲動の働きの源泉から強化を受けなければならないことを証明することによって、精神分析は今やそれ以上の空論から我々を解放してくれる。」(p. 317)

つまり、日中残滓へのエネルギー備給は「無意識の欲動の働きの源泉」から来るものである、と考えるのである。無意識と前意識の間にある検閲の力が夜になると弱まるのだから、そのことによって無意識と前意識の間の連絡はスムーズになり、日中残滓への備給も可能になるという次第である。

こうして、夢形成に必要な前意識の要素が無意識から強化を受けるということも説明されたことになる。もう一度「夢事象の心理学」の引用を記そう。

「以上の諸組織中のどれに、我々は夢形成への動因を求めるべきか、簡単に言えば、それは組織Ubw(無意識)である。これについては述べようと思うが、実はそういっては正しくないので、夢形成は前意識の組織に属するところの夢思想に結びつくべく余儀なくされているのである。 しかしまた我々は夢願望を論ずる別の箇所で、夢の原動力は無意識から援助を受けると言うことを知るであろう。」(フロイト著作集2、p. 445)

夢形成の動因は、無意識でありかつ前意識でもある。というのは、前意識の日中残滓(=前意識の夢思想)が無意識から援助を受ける(=エネルギー備給される、強化される)ことによって、素材として利用可能となり、夢形成に用いられる、ということになるだろう。

さらに、次の疑問も解決可能である。つまり、原始的自己愛においては無意識からも備給が撤収されるのではなかったか?ということである。だが、無意識の要素というのは「抑圧」を受けたものであり、フロイトによれば「ある程度の自我からの自立を成し遂げた」(フロイト著作集10、p. 317)ものである。それゆえに自我の原始的自己愛(原始的自己愛は「自我」の自己愛である!)の逆備給の影響を受けずに、無意識にある要素はエネルギー備給と独立的運動を保持している、と考えることができる。

明日はもう少し「メタ心理学的補遺」を読んでから「夢事象の心理学」に戻って先に進める。

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