誤字脱字や表現の修正と、注釈や参考文献を整える作業がほぼ終わった。何度か音読して、おかしな部分は修正か削除を加えた。査読にあたっての修正は一度だけであるため、指摘されそうなところはなるべくなくしておきたい。
まずい、左下が「単語数」になっていたので安心していたが、「文字数」でみると1万4千字ほどになっていた。
削った文章の一部がまた使えそうな文章なので、残しておく。
「A. ルメール(1983[原著初版1970])の著書は、ラカンの機知論を扱った早期の研究の一つである。そこではシニョレリ、ファミリオネール、眠れるボアズの例について、ヤコブソンの換喩と隠喩の議論を踏まえつつ分析している。ルメールはフロイトの「圧縮」概念に二つの異なる様式があるとし、言語学概念としての「隠喩」との同一視というラカンの読み替えは、その一方の様式においてのみ可能であると主張している[1]。佐々木孝次(1984)は上記三つの例についてルメールの議論の内容をほぼそのまま紹介しており、さらにパトリック・ドラローシュの1981年の著作からアテレの議論をも引いている。
[1] cf. ルメール(1983)、pp. 290-294」
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レヴィ=ストロースは『親族の基本構造』第1章で、文化と自然の境界を考えている。それまでの数々の研究、心理学、動物行動学、社会学などを挙げて、それらがいずれも文化(人間的なもの)と自然の境界を見出すことができなかったと述べる。
そこでレヴィ=ストロースが考えるのが、婚姻関係、性関係である。類人猿にはどんなに高度な種であっても、無差別な性行動が観察される。そこには内的・外的刺激に対する反応と軌道修正程度の学習があるだけであって、行動を支配する規則としての「規範」は存在しない。これに対して人間においては、いかなる地域の社会にも、程度の差はあれ、「インセスト禁忌」が普遍的に存在する。人間における「自然」を人間に普遍的に見られるものとおいた時、まさに「インセスト禁忌」は普遍的である。普遍的vs規範的。
レヴィ=ストロースの「普遍universel」について、ラカンはセミネール2巻で出席者たちと討論を交わしている。というのも、このセミネールの前夜にレヴィ=ストロースは「親族対家族la parente contre la famille」という講演をSFPの招待により行なっていたらしい(その筆記録はかなり探しても出てこない)。
結論から言えば、レヴィ=ストロースにおける「親族の基本構造」の「普遍性」は、ラカンによれば象徴的機能である。
「言い換えると、すべてが相互に連関しあっています。人間的次元という固有の領域において何が起きているのか、ということを考えるためには、次元がひとつの全体性を構成しているという考え方から出発すべきです。象徴的次元における全体性は宇宙un universと呼ばれます。象徴的次元はまずその遍在するuniverselという特性において与えられます。/この次元は少しずつ構成されるのではありません。一旦象徴が到来すると、そこにはひとつの象徴の宇宙があるのです。」(S2「自我」上巻p. 45)
また、ここでは扱わないが、レヴィ=ストロースが『親族の基本構造』の次に続くべき研究の対象として挙げている「複合構造」を考えるのは、分析家であるとラカンは述べている。
つまり、象徴的なものとはひとつの全体性を持っており、それでもって全世界を被覆するような認識のフィールドということであろうか。おそらく最小単位は二つの象徴であろうが、例えばそれが「昼」と「夜」であるなら、世界は「昼」であるか、「夜」であるかのいずれかである。たとえ象徴が二つしかなくても、その二つによって全世界が覆われ、大きな区別が行われる。
出席していたO・マノーニが発言をしている。彼は「偶然」ということについて問題提起をする。例えば、人間においては右利きが普遍性を持っており、少数左利きがいる。巻貝の殻の巻き方、方向には普遍的な形態が存在し、例外的に逆向きの個体もいる。彼の発言するところによれば、レヴィ=ストロースは「いつ頃からか自然と文化の間の対立がはっきりと見えなくなってしまった」と漏らしたらしい(p. 50)。これに対して同じく出席者であるイポリットは「それは普遍的偶然性でしょう」と返している。
インセスト禁忌は普遍的に存在する。だが同時に、インセスト禁忌がこれこれの形態で存在するのは偶然的である。マノーニによれば、「右利きか左利きかということが社会的なものなのか生物学的なものなのか、未だかつて解明されていません」。レヴィストロースもまた、この境界の曖昧さを指摘していた。子供が暗闇を恐れるのは、自然的なことか、文化的なことか(暗闇は恐るべきものであると社会が教えたからなのか)。レヴィ=ストロースはまた、「恒常性・規則性」の見られる領域が、人間とそれ以外の生き物では異なるともいう。生物において恒常性が見られるのは、本能的・遺伝的な領域である。動物たちは本能・遺伝に従って、刺激に対して恒常的・規則的な反応を返す。これに対して人間では、同じ刺激に対する反応は地域や時代や文化によって多様である。納豆を好んで食欲を掻き立てられる文化があれば、嘔吐反応を引き起こされる文化もある。反対に、人間において恒常性・規則性が見られるのは伝統や規範の領域である。そこではある刺激に対する行為の恒常的な規則性、すなわち規範が見られる。
ラカンはマノーニの上記の発言に対して、あなたはレヴィ=ストロースの語った「偶然」を取り違えていると指摘する。ラカンによれば、レヴィ=ストロースが問題にした「偶然」は「必然」に対立するものである。そして、「普遍」と「必然」の区別が必要であるという。ここでラカンが「数学の必然」と呼ぶものはなんであるか。数学には必然性がある。よくわからない。そしてラカンは次のようにいう。
「エディプス・コンプレックスは普遍的であると同時に偶然的です。なぜならこれは、とりわけ、そして純粋に偶然的なものだからです。」(p. 52)
普遍的かつ偶然的=象徴的ということだろうか。では必然というのはどうなるのか。というより、「普遍的」が「偶然的」と対立概念ではないとしたら、「普遍的universel」は何と対立するのか。
レヴィスト自身は、「普遍性」と「規範」を対立させている。
「その場〔本能による決定を免れている行動の中に〕に規則が現れるなら、我々は例外なく文化段階にいると確実に知れる。それとはちょうど反対に、自然の判別基準は普遍的なものの中に容易に認められる。すべての人間に共通する恒常的なものは、必然的に、習俗、技術、制度など、人間集団の相違と対立をかたちづくるものの領域外にあるからである。」(『親族の基本構造』福井訳、p. 66)
人間の行動の中で(本能的行動は除いて)、それが規則的であるなら文化的といえ、それが普遍的であるなら自然的だ、と言っている。どこかこの区別の仕方にはトリックがあるような、うまく飲み込めない違和感がある。そもそも「本能による決定を免れている行動」と規定することはそもそもできるのだろうか。何をもって本能を免れていると判断するのか。あるいは、インセスト禁忌の普遍性と、各文化での規範の多様性というのは、単に形式の存在の普遍性と、その具体的内容の多様性という、水準の違う話を対立させているようにも思われる。つまり、人間に普遍的なものとはざっくり言って人間の本質と言えるのだから、人間に本質的なものほど自然的(=非人間的)ということになるような矛盾が存在する。そしてまさに、その人間的かつ非人間的なものが、人間と自然の境界にある「インセスト禁忌」だということになる。そうなると、「人間的」とはどういうことなのか。
ラカンのセミネールに戻ると、ラカンはさらに「総称的なものle générique」と「普遍的なものl’universel」の区別をも導入する。「générique」には生物学的な「類(種)」を表す意味合いがある。そして、マノーニの言ったような右利き、巻貝の殻の巻き方、あるいは人間が二本の腕、足、目を持つというようなことはたんに「総称的」に過ぎず、「普遍的」なことではない、という。「普遍的」は「偶然的」とは同居しうるが、「必然的」とも「総称的」対立する。人間がこれこれの身体的特徴を持つのは「普遍的」なことではない。
この辺りのラカンの返答は曖昧で、イポリットはそれに対して追求を続ける。ラカンはマノーニの問いにちゃんと答えていないのではないか、「象徴的」という概念を導入することにいったいどのような意義があるのか、といったことを問いただしている。
自然には非対称なものがある。例えば人間には右利きが多い、巻貝には特定の方向への渦巻きが多い、など。もっとミクロな化学構造にもそういうものがあるだろう。そして、この世界でマジョリティが「右利き」であって「左利き」でないことに必然性はない。それは単なる偶然的なことである。ラカンはこの非対称の「神秘的な意味を探索しようと」する「自然哲学」を批判している(S2上巻、p. 55)。そう考えると、ラカンのいう「必然的」とはいわば「目的論的」ということではないだろうか。それが現にそうであることの「必然性」を追求しようとする、そこにある種の目的論を見ようとする(たとえばヨーロッパ人種文化の発展に神的な目的を見ようとするゴビノー)。「普遍的」であるというのは目的論からは区別される。それは「象徴」の機能であると再三言われる。
イポリットが「象徴という言葉はどんな役に立つというのでしょうか。何をもたらしてくれるのでしょうか。それが質問です。象徴という言葉が役に立つことは疑いません。 しかし、それにいかなる点で何を付け加えるのでしょうか」と痺れを切らして問うても、ラカンは「 象徴という言葉は、私には分析経験を報告する際に役立ちます」と肩透かしな返事をしている(p. 57)。
ただ、この セミネールの最後にラカンは重要なことも言っている。
「 私はこうも言ったはずです。我々はもちろん私なら偽意味的非対象と呼ぶ意味での自然の形態的側面を考慮しなくてはなりません。なぜなら人間は人間の根本的象徴を作るために自然の形態的側面を捉えるからです。しかし、重要なのは、自然の中にある諸形態に、象徴的な価値と機能を与えるものは何か、 またある形態を他の形態との関係において機能させるものは何かということです。非対称という考え方を導入したのは人間です。自然の中の非対称は、対象でも非対称でもありません。あるがままのものです。」(p. 61-62)
つまり、自然の中に偶然的に存在する非対称は、何か目的があってそのように非対称であるわけではない。そしてさらにその根本に、そもそも我々がそれを「非対称」と捉える水準がある。何かが「非対称」であるのは、それが「対称」と対立する限りにおいてである。「普遍的」とはその水準に関わっている。
2024/9/9 – shanazawa.com への返信 コメントをキャンセル