2024/8/13

昨日また布団の中で、やっぱり機知に関するセミネール4巻までの議論を読解したところで査読に通らないのではないかと思い始めた。というのも、やってる人がいないからである。先行研究がない。「先行研究がないからやります」という論文はおそらくアクセプトされない。

今まではまずラカンのテクストを読んで、そこから面白い主題を思いつき、次いで関連する先行研究を調べるということをやっていた。おそらく、だからうまくいかない。むしろ立脚点を先行研究におき、先行研究を読むことの中から主題を思い付かなければならない。

というわけで、今の自分になにができるかを考える。自分の強みは、初期のセミネールに関して理解が深いことである。初期セミネールに関する研究の全体を掴む。そこから初期ラカン研究の先行研究に一石を投じるようにする。まずはそれ。そこから中後期に移行していくにつれて先行研究の数も増えてくる。そうすれば、初期ラカンの理解を固めた自分に、これまでの研究の曖昧な点、誤った解釈に関して指摘できることがたくさん出てくる。そうなればこっちのものであるが、そこに至るまでにはある程度時間がかかる。

さて、自分の今の手持ちのカードは、機知に関する議論、人類学に関する議論、バンヴェニストとの関わり(シニフィカシオン)について。ラカンと人類学の関わりについては河野一紀の研究が新しい(紀要論文ではあるが)。紀要論文は先行研究に立脚していないものが多いので、そこから別の論文に辿る作業がやりづらい。逆に、「先行研究がないからやりました」というのは自分の研究室の紀要論文などに挙げて仕舞えば良い。

ラカンの機知論は先行研究が少なくて入りやすそうである。外国語のものはまだ徹底して調べたわけではないが、ざっとうちの本棚とネットで調べたところ、我が国での研究は以下のものでほぼ全てである。
・原和之(2002)『ラカン 哲学空間のエクソダス』、第三章3節「『機知』あるいはシニフィアンの耐えがたい軽さ」
・川崎_2007_無意識のシニフィアン的構造_機知のラカン的解釈
・片山_2012_機知と他者_フロイト・ラカンの機知論について

これらをざっと全て読んで、今の自分の理解に照らし合わせながら、何か言うべきことがあるかを考える。

まずは原和之(2002)の該当部分を読んだ。ラカン-バンヴェニストによるシニフィカシオンの定義、つまり「可能な用法の集合」ないし「用法の束」という観点から、ファミリオネールの例を分析しながら機知においてなにが起こっているかを分析している。原先生は現在に至るまで一貫して、ラカンの言語論を「聴取」ということから理解している。つまり言葉が何かを意味するというのは、聴き手の側がそのように聴き取っているということである。すると、「欲望」の二重構造も明らかになる。つまり、相手の言葉の意味=相手の言わんとすること=相手の欲望は、その言葉がこのような意味であってほしいという聴き手の聴取=聴き手の欲望にほかならないということである。他者の欲望には、知らず知らずのうちに自分の欲望が反映されているしう、そのようにしてしか「意味」というものを考えることはできない。

さて、ヒアツィントの機知、あるいはある種の言い間違いである「ファミリオネール」は「ファミリエール(馴染みのある、仲間のような)」と「ミリオネール(金持ちの)」が圧縮されて作られた言葉である。つまりヒアツィントは最初、ロートシルト男爵と自分の仲の良さを自慢するために「ファミリエール」と言おうとしたのだが、同時にヒアツィントのなかの本当の思い、つまり所詮金持ちは金持ちなりの鼻にかけた仲間意識しかあるまいという批判的意図が露出し、そこに「ミリオネール」が滑り込んできてしまう。ここで原は、機知においては先行的なシニフィカシオンがシニフィアンを規定するという現象が起きていると論じる。つまりヒアツィントの批判的意図というシニフィカシオンが、シニフィアンを変えて「ファミリオネール」を作ったということである。

「シニフィカシオンがシニフィアンを規定する」という原の読解はどういうことか、あるいはそのことにどんな意義があるだろうか。というのも、やはり機知はシニフィアンの操作であって、そこから新たな意味が創出される(したがって隠喩の問題と結びつけられる)からである。先にシニフィカシオンが定まっていることなどあるのだろうか。

ここで原がさらに引くのは、ラカンが『無意識の形成物』において「atteré〔仰天した,茫然とした;(恐怖で)打ちのめされた,(悲しみに)打ちひしがれた.〕」というフランス語の意味変遷について述べている部分である(セミネール5巻『無意識の形成物』上巻、p. 37-41)。「atteré」が持つ「(恐怖で)打ちのめされた」という意味は曖昧である。「atteré」はかつては「terre(地面)」と語源的な関係を持っており、「地面に近づく」「地面に打ち倒された」という意味があった。しかし歴史上のどこかで、この語が単なる同音異義である「terreur(恐怖)」と関連づけられた結果、「atteré」はより精神的な曖昧な意味合い「(恐怖で)打ちのめされた」あるいは「茫然とした」という意味を持つようになった。要するに、実際に地面に打ち付けられるのではなく、精神的に打ち倒されるというような意味を持つようになった。しかし、「精神的に打ち倒される」というのはそもそも比喩的表現である。「言うまでもないことですが、心理的には、誰も本来の意味で『atteré(打ち倒)』されたり『abattu(打ち倒)』されたりはしていません」(S5, p. 39)。したがってラカンもこれは隠喩であると語っている。

そして原はこれについて「シニフィカシオンがシニフィアンを再規定、ないし解体=再構築したのである」(原_2002『ラカン 哲学空間のエクソダス』p. 105)と言っている。しかし、ラカンの次の記述は正反対のことを言っているように思われる。

「しかし、事柄の興味は何よりも、恐怖terreur が「アテレatterré」のなかにある「テール terre」によって導入されていることに気づく、というところにあります。言い換えれば、隠喩とは意味の注入ではないということです——それではまるで、そうしたことが可能であるかのように、意味がどこかに、どこであれ、一種の貯水池のなかにあるかのようになってしまいます。もし「アテレ atterré」という語が新しい意味をもたらすとすれば、それは一つの意味作用を持つ語としてではなく、シニフィアンとしてです。これはその語が、「恐怖」という語のなかに見出される一つの音素を含んでいるからです。シニフィアン的な道、両義性と同音異義性という道を通ってこそ、すなわち、もっとも無意味[=ナンセンス]なものの道を通ってこそ、この語は、それが「アバテュabattu」という語の持つ既に隠喩的な意味のなかに導入し、注入することになるような意味上のニュアンス、つまり恐怖というニュアンスを産み出すようになります」(『無意識の形成物』上巻、p. 39)

「恐怖」という意味が先にあって、それが「atteré」の中に注入されているわけではない。シニフィアンよりも先にシニフィカシオンの存在を考えることはできないのではないだろうか。むしろ「atteré」の持つ曖昧で不思議な意味(シニフィカシオン)は、「abattu」が「atteré」によって置き換えられ、単なる「打ち倒される」にシニフィアンの次元で「恐怖terreur」が挿入されることによって、初めて生じることができたのではないか。この、シニフィカシオン以前のシニフィアンの領域における操作だからこど、「同音異義性」「無意味」な道と言われている。

「atteré」という語が持つニュアンスは、「abattu」が持つニュアンスとは異なる。「atteré」には「恐怖terreur」のニュアンスがある(しかし意味を注入したわけではない。むしろシニフィアンの方から意味が立ち上がる)。そして、「atteré」のこの「ニュアンスがその用法の中でしっかりと打ち立てられ、そのニュアンスが意味となり慣用的意味となったまさにその限りで」(p. 41)、もともとニュアンスを付与していた「terre」は抑圧されてしまったとされる。なお、ここで意味における「用法」と「ニュアンス」が区別されているのは興味を惹く。

原は「シニフィアンとシニフィカシオンの相互作用」(原_2002, p. 105)というが、ここは要検討である。シニフィアンからシニフィカシオンへの一方向しかないのではないか。そうなるともちろん、なぜシニフィアンの置き換え、シャッフルが起きるのかという疑問は浮上する。なにがシニフィアンを組み替えるのか。

そこから原は大文字の他者について議論を進めていく。つまりファミリオネールを扱うときには普通の言葉を聞き取る時とは違って、そもそも意味するか否かが問題になっていると述べる。すなわちファミリエールかミリオネールかどちらかを意味しようとしているではなく、それが意味するか意味しないかということそれ自体が問題になっているとされる。意味しないというのは、他者が欲望を持たないということに等しい。何かがAを意味する、Bを意味するというときにはそれを聞き取る。私が、その他者に対してAを欲望してほしい。Bを欲望してほしいというように他者の欲望を欲望している。

原は、大文字の他者を用法の束というシニフィカシオンの定義から考える。すなわちその相手が何を言おうとしているのか、その意味が不確定である。あるいは多義的であると言うのは、その他者がコードとして、つまり様々なシニフィアンの用法の全てがそこに詰め込まれたものとしてあるということである。

続く…

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“2024/8/13”. への2件のフィードバック

  1. 2024/8/16 – shanazawa.com

    […] いまセミネール3巻の換喩と隠喩についての部分を読んでいて、原和之の記述に関係しそうなものがあった。ラカンが機知のメカニズムをあくまでも「シニフィアン」の水準で説明しようとしていたのに対し、原は、機知においては特別に「シニフィカシオンがシニフィアンを規定する」と解釈していた(https://shanazawa4.wordpress.com/2024/08/13/2024-8-13/)。なぜ原がこのように語ったかと考えると、そこにはラカンの次の説明があったからかもしれない。これはラカンの隠喩の定義としてよく引用される一節である。 […]

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  2. 2024/12/14 – shanazawa.com

    […] そしてアーギュメントを思いつくためには、やはり先行研究出発型でやらなければならないかもしれない。ちなみに夏頃に一気に書いた隠喩に関する論文(8/13https://shanazawa4.wordpress.com/2024/08/13/2024-8-13/~8/24https://shanazawa4.wordpress.com/2024/08/24/2024-8-24/の記事)だが、これは第1節で既存の研究をいくつか紹介してそれぞれの議論の厳密でないところを指摘し、第2節でみずからラカンのセミネールを読解して整理を行うということだった。 […]

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2024/12/14 – shanazawa.com への返信 コメントをキャンセル