2024/8/12

外国語のリスニング中に起こる余計な自己意識というか反省作用のようなもの(そのおかげで音声に集中・没頭できなくなる)は、人前や録音しながら楽器演奏するときのコンディションに似ている。

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昨日のつづき。フロイト『夢解釈(夢判断)』第七章「夢事象の心理学」B節「退行」

夢は願望充足であるが、夢思想の中に潜在する願望的な思想や観念は、夢の中では「客観化され、一場面として表現され、あるいはよくいわれるように『体験』される」(フロイト著作集2、p. 439)。つまり観念が感覚的な形象に変換され、夢の主体である私がそれを「体験」する。したがって夢は基本的に「現在形」で上演される。夢においては、願望が、現に体験されるという形で表現される。

これと関連することであるが、夢において願望が「体験」されるとは、すなわち観念の内容がただ「思考される」のでなく、感性的形象に変換されるということである。夢において、観念内容は「感じられる」。

この事実をより立ち入って考察するために、フロイトは「心的局在性psychische Lokalität」という概念を用いる。つまり「心」というものを一つの器具(機械)とみなし、例えば「組み立て顕微鏡」だとか「写真機」(p. 441)だとかそういった器具に見立てて、心の働きのそれぞれの要素をその器具の構成部分として考えるということである。

フロイトはかつて「科学的心理学草案」(1985)の中で同様の図式化を行なっているが、こちらはフロイトが未完のまま放棄した論文であり、フロイトの死後1950年に公表されることになった(詳しい経緯はこちらを参照:https://s-office-k.com/professional/column/book/draft-psychology)。なるほど、1950年公表ということは、ラカンがレヴィ=ストロースに出会い、『親族の基本構造』の影響を受けた(1949年)よりさらに後である。当然ラカンはそれよりも前に『夢解釈』に馴染んでいたはずだが、この「夢事象の心理学」に登場する図式が、新たに発見された初期フロイトの「科学的心理学草案」にも見られることを知って驚いたに違いない。ラカンが「心理学草案」を注釈するのは、「草案」公表後、1954-55年のセミネール第2巻である。本研究日誌においても引き続き、この心的図式に関連する諸論文、「夢事象の心理学」と「科学的心理学草案」に加え、特に「夢理論のメタ心理学的補遺」(1916)、「マジック・メモについての覚書」(1925)、フリース宛書簡(重要な52番書簡はフロイト著作集に未収録か)なども検討する。

フロイトは心という装置を一つの組み立て器具と見立て、その諸部分を「Instanzen〔審級、検問所、機関、部局〕」あるいは「System〔システム、組織〕」と呼ぶ。

(ソース:https://www.facebook.com/photo/?fbid=515123480140321&set=a.182140323438640

それぞれの部位の名称及び機能については画像がわかりやすいので割愛。知覚末端Wは常にフレッシュでいなければならない(そうしないと新しい刺激を受け取れないから)ので、受け取った刺激を記憶せず、毎回記憶装置に刺激を送り、自身は元の状態に戻る。記憶を司るのは知覚末端Wと結合した記憶装置Erである。

このあとの、フロイトが「連想の事実」と呼ぶものについての説明がいまいちわかりにくい。知覚末端Wが刺激を知覚する時に、ただ一つ一つの知覚の内容を受け取るだけでなく、これらの諸知覚の間の関連もまた受け取られている。これらの諸知覚が相互に結合しているのは、「それらがかつて同時に出会ったためである」(フロイト著作集2、p. 443)。原語確認していないが、「同時に出会う」という表現がいまいち。そして知覚末端Wで同時に知覚された諸知覚はその後記憶組織に移行するわけであるが、フロイトは次のように説明する。

「すると連想の事実は、記憶組織要素(Er要素)中の一要素の進路開拓の結果、抵抗減退の結果、興奮が第三の記憶組織要素に向かっていくよりも、むしろ第二の記憶組織要素の方へ移っていくということのうちに存立するのである。」(p. 443)

知覚末端Wから記憶組織への刺激の移動が「進路開拓」と言われているのだろうか。また「抵抗減退」はなぜ起こるのか、「進路開拓」の結果起こるのか。さらに「第一」「第二」「第三」の記憶組織というのは、図における記憶組織Er、Er’、Er’’などのことを意味しているのだろうか。興奮が第三ではなくむしろ第二の記憶組織要素の方へ移っていくとは、興奮の伝達が一つずつ行われるということなのか。

あるいは、「記憶組織要素」というのがそれぞれの記憶された知覚なり観念なりのことだとすれば、興奮の伝達はそれらの諸知覚の間を電流のように伝っていくということだろうか。うん、おそらくその理解の方が正しいように思われる。諸要素の間を電流のように興奮が伝っていくことが、「連想」として定義されている。しかもそれは、ある要素から別の要素へ興奮が伝達される(連想が生じる)ためには、その要素間にルートが「開拓」され、「抵抗減退」が起こっていなければならない。複数のルートの可能性があるとすれば、最も抵抗の少ないルートを連想は流れていくことになる。

そもそも、記憶組織が複数順番に並んでいるというモデルがイメージしにくい。知覚末端から第一の記憶組織Erへ移行が起こるというのはわかるが、記憶組織ErからEr’へ移行が起こるというのはどういうことなのだろうか?それは知覚した時間に依存しているのか。つまりある時間の諸知覚がErに蓄えられ、その後に新しい諸知覚が知覚末端Wから送られてくると、押し出されるようにしてErの諸要素がEr’へと移動するのだろうか…

さらに続くp. 444、無意識についても語られる。が、ここも難しい。「変化を保存する能力を持たない、つまり記憶力を持たないW組織は、我々の意識にとっては種々雑多の感性的質を提示する。ところが逆に、もっとも深く刻みつけられたものをも含めての、我々の記憶は、本来無意識である」(p. 444)。記憶と無意識とは区別することを確かラカンは強調していた気もするが、無意識というのもある意味では記憶である。そして無意識の場に記録されている要素は、一方では意識化されうるものであるけれども、意識化されなくても無意識の状態のままで色々な作用を行っている(それが「性格」を形作っている)。そしてフロイトの次の記述もまた要検討である。

「しかし無意識になっている記憶が再び意識化されると、それらは諸知覚に比してきわめて微弱な質を示すか、あるいは感性的な質を全く示さないかの、いずれかである。そこでもし、記憶と記憶に伴う質とがP組織〔心の組織〕において意識に対して相互排他的だということが実証されるならば、神経興奮の諸条件への、将来有望な洞察の道が開けることであろう*。
*私はのちに、意識はまさに記憶痕跡の代わりに発生すると考えるに至った(全集第14巻の『ヴンダーブロックに関する覚書』〔1925年〕を参照)。」(p. 444)

最初の一文は、無意識に保存された記憶が思い出されて意識化された時に、その記憶を「感性的な質」として体験することは(ほとんど)ないということだろう。例えば昔被った火傷の経験記憶が蘇ったとして、実際に今、その火傷をもう一度感覚的に苦しむということは(基本的に)ない。そして次に、この「記憶(そのもの)」と「記憶の(感覚的な)質」とが、「意識に対して相互排他的」であると言われる。これはいよいよよくわからない。さらにここの原注で「ヴンダーブロックに関する覚書」が参照されている。これは「マジックメモについての覚書」のことである。一旦ここで止めて、「マジックメモ」論文を概観してから続きに戻ろう。なお、「マジックメモに関する覚書」はフロイト著作集に未収録だと思われる。

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「マジックメモについてのノート」(1925)(中山元訳『フロイト自我論集』、ちくま学芸文庫)

まず、なにかを紙に記録することを考えるとき、白紙にインクで文字を書いていけばすぐに書くことのできる余白がなくなってしまう。したがってこのモデルは「記憶」を可能とするがすぐに容量オーバーになって、また別の紙を用意しなければならなくなる。あるいはまた、石盤にチョークで何かを書くという場合を考えると、これは石盤そのものの交換を必要とせずに、記録だけを消してまた書くことができる。しかしこれでは、書いたことを持続的に保存することはできない。

「このように、われわれが記憶装置の代用として使用する道具〔白紙や石盤〕においては、情報を無限に受け入れる能力と、持続的な痕跡の保存は、互いに排除し合う特性と考えられる。受け入れ表面を更新するか、メモを破棄するかのどちらかなのである。」(『フロイト自我論集』p. 306)

情報を無限に受け入れる能力と、持続的な痕跡の保存が「互いに排除し合う」というのは、先ほど「夢事象の心理学」で見た「記憶と記憶に伴う質とがP組織〔心の組織〕において意識に対して相互排他的だということ」と何か関連しているのだろうか(表現が似ている)。「相互排他的」というのはつまり、一方が現れるならば他方は現れることができないということである。「情報を無限に受け入れる能力」が用意されれば「持続的な痕跡の保存」が断念されなくてはならず、またその逆も然り。そう考えれば、「記憶」と「記憶に伴う質」が「意識に対して相互排他的」というのは、意識に「記憶」が現れている時には「記憶に伴う質」が現れることができず、「記憶に伴う質」が現れている時には「記憶」が現れることができないということである。

言い換えれば、何かの記憶(があること)を思い出した時には、その記憶を感性的に体験することはないし、反対に、何かの記憶を感性的に体験する時には、その何かの記憶(があること)を認識することができないということであろうか。そう考えると腑に落ちるのではないか。つまり、「何かの記憶を感性的に体験する時」というのは典型的には夢を見ている時のことである。我々は先ほど述べたように、普通、火傷をした記憶を思い出した時に今現在に火傷を再度感性的に苦しむということはない。しかし夢の中で火傷の記憶が蘇った際には、その記憶は感性的に上演され、夢の中で我々はその火傷を現に苦しむ。そのときに、我々はそれが過去の記憶であることを認識していない。

なるほど、すごい考察である。

「マジックメモ」に話を戻すと、とはいえ我々の心は実際には、「つねに新たな知覚を無限に受け入れることができ、同時に知覚の永続的な記憶痕跡を維持することができる(内容に変更が加えられないわけではないとしても)」(p. 306-7)。つまり白紙や石盤とは違う構造を持つことによって、相互排除的な二つの性質を併せ持つことを可能にしている。そしてその構造とは、先に見たように知覚組織Wと記憶組織Erという二つの組織が結合しているという構造である。そして次のフロイトの記述も重要である。

「その後『快感原則の彼岸』において、知覚システムにおいて発生する意識という説明不可能な現象は、持続的な痕跡の<代わりに>発生するのであるという見解を付け加えた。」(p. 307)

ここで、「夢事象の心理学」の原注でフロイトが述べていたこと(「私はのちに、意識はまさに記憶痕跡の代わりに発生すると考えるに至った」)が「快感原則の彼岸(快原理の彼岸)」(1920)由来のことであると言われている。「夢事象の心理学」の原注では「全集第14巻の『ヴンダーブロックに関する覚書』〔1925年〕を参照」と書いてあったのだが、実際のソースは「快感原則の彼岸(快原理の彼岸)」のようである。ここでまた中断して、「快原理の彼岸」の該当する議論を確認しておこう。

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「快感原則の彼岸」(1920)(フロイト著作集6)、第Ⅳ節

以下、8/26(https://shanazawa4.wordpress.com/2024/08/26/2024-8-26/)に続く。

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  1. 2024/8/26 – shanazawa.com

    […] フロイトのメタサイコロジー。https://shanazawa4.wordpress.com/2024/08/12/2024-8-12/の続きです。 […]

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  2. 2024/8/28 – shanazawa.com

    […] 『夢解釈』第7章「夢事象の心理学」のB節「退行」の続きから見ていくが、8/12の読解(https://shanazawa4.wordpress.com/2024/08/12/2024-8-12/)に関して若干訂正するところがある。 […]

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  3. フロイトのメタ心理学を読む。 – shanazawa.com

    […] 2024/8/12(https://shanazawa4.wordpress.com/2024/08/12/2024-8-12/) […]

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