2024/8/11

7月に「フロイト『機知』をラカンはどう読んだか」というテーマで学術バーQにて発表を行ったのだが、昨日布団に入りながら、何か形にできないかなと思い始めた。資料集めはある程度終わっているので、あとは形にするだけである。先行研究も日本のものは少ないのでおそらくほぼ集めた。8月いっぱいが締め切りの「哲学の門」に応募してみようかと思ったのだが、そんなに時間があるわけでもない。締め切りを設定すればやるのかもしれないが、辛いことでもある。とりあえず作業はする。なんとなく8月中に一旦形にしようという雰囲気を漂わせておく。でも別に終わらなくてもいい、くらいの心持ちでいこう。

ちなみにセミネール4巻までのラカンの『機知』に対する言及を集めて読解するというような内容にしようと思うのだが、今朝4巻を見ていたらここにも「ハンプティ・ダンプティ」が登場していた(cf. 2024/8/5の記事:https://shanazawa4.wordpress.com/2024/08/05/2024-8-5/)。ラカンによれば、ハンスはハンプティ・ダンプティのようなものだという。詳細な検討はしないが、該当箇所だけ引用しておく。

「機知の出現には常にまったく専制的な面があります。ハンスは『不思議の国のアリス』のハンプティ・ダンプティのようなものです。彼はいつでも「事態はこうだ、だって俺が決めたのだから、俺が主なのだから」と言うことができます。とはいえ、彼が問題の解決に完全に依存していることに変わりはありません。この問題とは、それまで彼と母との間のルアーの弁証法に基づいて組織化されていた母親的世界と彼との関係様式を改訂、すなわち象徴化しなくてはならないという必然性から生じるものです。ルアーの弁証法の重要性についてはすでに十分に強調してきました。 二人のどちらがファルスをもっており、どちらがもっていないのか。「母が、子供である僕以外のものを欲しているとしたら、いったい何を欲しているのか」。この子はここへと行き着きました。しかし、ここは彼が安住できるところではありません。」(セミネール4巻『対象関係』下巻、p. 128)

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昨日のつづき。『夢解釈(夢判断)』第七章「夢事象の心理学」、A「夢を忘れるということ」

我々がしばしば夢をすぐに忘れてしまうという事実は、それ以前の諸研究では多くの場合、覚醒中の意識と睡眠中の意識との間に断絶があるからだと論じられてきた。しかしフロイトはそうは考えない。フロイトは、夢の忘却は「抵抗」が作用するからだと考える。したがって抵抗を克服できれば、忘れていた夢の内容を、それもはるか過去の夢の内容をも思い出すことができる。夢は抑圧されて思い出せなくなるだけで、無くなるわけではない。

フロイトはこのように分析の作業が有する効力を主張しながらも、夢にはどうしても分析が突破することのできない、解釈困難な部分が存在すると述べる。いわゆる「夢の臍」という言葉が登場する一節である。

「どんなにうまく解釈しおおせた夢にあっても、ある箇所は未解決のままに放置しておかざるを得ないこともしばしばある。それは、その箇所にはどうしても解けないたくさんの夢思想の結び玉があって、しかもその結び玉は、夢内容になんらそれ以上の寄与をしていないということが分析にさいして判明するからである。これはつまり夢の臍、夢が未知なるものの上にそこにおいて坐り込んでいるところの、その場所なのである。判断 (解読)においてわれわれが突き当たる夢思想は一般的にいうと未完結なものとして存在するより仕方がないのである。そしてそれは四方八方に向かってわれわれの観念世界の網の目のごとき迷宮に通じている。この編み物の比較的目の詰んだ箇所から夢の願望が、ちょうど菌類の菌糸体から菌が頭を出しているように頭を抬げているのである。」(フロイト著作集2、p. 432)

話を夢忘却に戻そう。もし夢忘却が抵抗によるものだとすれば、「この抵抗の反逆して夢形成というものをそもそも可能にしたのは一体全体何者なのか」(p. 432)。つまり、なぜ抵抗が働いているにもかかわらず我々は夢を見るのだろうか。抵抗が働いているなら、そもそも夢を見ないことにならないのだろうか。これに対してフロイトは、「抵抗は夜の間はその力の一部分を失っている」と考える。睡眠状態が抵抗の勢力を弱めることによって、夢は(残存する抵抗によって歪曲を受けるものの)形成されることが可能となる。

次にフロイトが問題として挙げるのは、自由連想がなぜ夢のもとになった思想への経路になるのかということである。夢判断の自由連想においては、ある夢の要素に対して思いつくところの「欲せられざる観念(何ということなしに浮かんでくる観念)」を片っ端から記録していき、またその連想が動いていく方向の枝葉へと自由に連想を及ばせていく。この方法に対しては、そんなランダムな方法で成功するはずがない、それは「目標のない表象の流れに身を委ねてしまうだけではないか」(p. 434)という批判が向けられたという。しかしフロイトによれば、これで良いのである。なぜか。その根拠をフロイトは、自由連想は常に未知の目標表象に向けて決定されているからだと考える。我々が意識的な(既知の)目標表象を廃棄し、「欲せられざる観念」に身を委ねたとしても、そこにはまた別の未知の目標表象が存在し、その目標表象が連想の流れを支配しているのである。これはフロイトが『日常生活の精神病理学』において、偶然思い浮かんだ数字には必ず理由があると論じた事例、そしてラカンがそこから独自の偶然論を展開した議論へとつながる主題である。フロイトは、夢の内容は全て無意識下に保存されているし、忘却は抵抗の産物であるし、連想は決定づられているという、かなりすごい決定論を構想しているようである。すべてのことは保存され、関連づけられ、理由がある。

さて、連想がちゃんと目標に向かって決定づけられているとすれば、なぜ自由連想は一見すると荒唐無稽な連想に見えるのか。それは抵抗が働いているからである。つまり観念Aと観念Bの間のつながりに対してい抵抗が働き、抑圧が起きたとすれば、AとBの連想は時間的な間隔が空けられて意識に浮上してくるかもしれない。あるいはAとBの内容そのものに抵抗が働けば、それぞれの内容が別のものへと代理されて、その別のものが関連を持って意識に浮上してくることもある。このように、抵抗が働くことによって本来の正常な観念連合が歪曲を受け、一見すると荒唐無稽な連想が形成される。しかしその作業を逆に辿れば、理路の通った連想が存在するというわけである。つまりフロイトはここで、夢形成の際に働く夢の作業(歪曲の作業)と、自由連想の際に働く抵抗の作業とをパラレルに考えているということになる。

以上、ここまでがA節。次はB「退行」であるが、この節からラカンが注釈するところの、心を一つのレンズのように見立てる局所論が始まる。

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  1. フロイトのメタ心理学を読む。 – shanazawa.com

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