2024/8/10

ラカンにおける「前意識」についてコンパクトな論文を書いてみたいと思ったので、フロイトの夢理論およびラカンの解釈をたどっていきたい。要約していくようにして書きながら読む作業を行なってみる。なお、まだそこまで先行研究を調べたわけではないが、前意識を主題にしたラカンの論文は少なくとも日本には多分まだない。ただ先行研究を挙げないと査読者に指摘されるので、フロイトの夢理論の理解やラカン研究における周辺的なトピックに関する先行研究を少しずつ集めて、今自分がやっている研究が研究史の中でどのような位置にあり、どんな意義があるのかを書けるようにしておく。

『夢解釈』第七章「夢事象の心理学」

フロイトはのちにラカンがセミネール11巻でも取り上げる有名な夢を例示する。息子を病気で亡くした父親がその遺体が安置されている部屋の隣で仮眠をとっていた時、子どもが彼(父親)のベッドの横に立って彼の腕を掴み、「お父さん、お父さんには僕が火傷をするのがわからないの?」と問いかけるという夢である。そこで父親が目を覚ますと、隣の部屋では蝋燭が倒れて息子の遺体の一部が焼けていた。これに対してフロイトは、隣の部屋から漏れ出た灯りを父親の閉じた目が眠っている間に知覚し、息子の遺体が焼けたという推論を行ったという普通に解釈に加えて、さらに解釈を与える。例えば「火傷をした」という息子のセリフは、息子の病気であった熱病に結びつく。フロイトはこれを「多面的に制約されている」と表現する。これはのちにアルチュセールが用いる「多重的決定」という概念の元ネタで、夢のそれぞれの要素が別々に複雑な意味的な関連のネットワークを持っているということとしてフロイトは用いている。

フロイトはさらに、父親のこの夢の願望充足を指摘する。よくよく考えれば、息子の遺体が焼けているという推論を無意識のうちに父親が行なっていたとして、なぜその状態で父親は夢を見たのだろうか。夢を見るというのはフロイトによれば睡眠を継続するという機能を持つ、つまり眠りたいという願望の充足でもある。つまり父親(の無意識)は、息子が焼けていると分かっていながら眠りたがった、ということにさえなる。そしてフロイトの考えでは、父親は夢の中で少しでも長く生きている息子を見ていたかったという願望が充足されているとされる。ここで父親は、現実の息子と夢の中の息子との間でジレンマに陥っていたともいえよう。現実の息子を救いたければ夢の中の息子を消し去らなければならず、反対に夢の中の息子を見続けていれば現実の息子の遺体が焼けてしまう。

ここでは深堀しないが、ラカンがセミネール11巻でこの夢を注釈する際の一節はすごくいい。

「目覚めは、生じたこと——それはつまり、もはやそれに備えるしかないような現実という厄介な出来事ですが——の表象の中へと主体の意識が覚醒することとして我われに示されています。しかし、みなが眠っていたそのとき、この出来事とはいったい何だったのでしょうか。少し休もうと思ったあの父親も、目を覚ましていることができなかったあの老人も、そしてそのベッドの前で心優しい誰かに「まるで眠っているようだ」と言われたであろうあの子も、みなが眠っているときです。我われが知っているのはたった一つのことです。それは、すべてがまどろみの中にある世界の中で、ただ「ねえお父さん、見えないの、僕が燃えているのが」というその声だけが聞こえたということです。 この言葉はそれ自体が火の粉です。この言葉だけで、それが落ちたところには火が燃え移ります。そして何が燃えているのかは解りません。炎のために「下にあるものUnterlegt」「未決のもの Untertragen」に、つまり現実的なものに火がついているという事実が我々には見えないからです。」(『精神分析の四基本概念 上』、岩波文庫、pp. 132-133)

「A 夢を忘れるということ」

夢がよく忘れられるものであって、それを分析するといっても断片的であったり部分的であったり、語りなおす際に付加物が混在してしまうのではないかという疑念がしばしば提出される。あるいは語られたものもそれがたしかに夢に現れたかどうかに関する不確実性がある。しかしフロイトは、思い出した夢や語られた夢の確実性に対するそのような疑念は「夢検閲の落とし子」(フロイト著作集2、p. 424)であると考える。つまり夢の断片を不確実だと考え分析を控えさせるという点で、その疑念は分析の仕事の継続を妨害するものとして機能するのである。「いつも仕事の継続を妨害するものは、抵抗と見るべきである」(p. 425)。

ここでフロイトは面白い註を書いている。分析の継続を妨害するものが抵抗であるとするなら、必ずしも患者の責任ではないような突発事故、例えば患者の父が死んだとか、戦争が勃発して分析が中断されたとかいうことは、抵抗と言えるのだろうか。フロイトは、ある意味ではこれらの出来事もまた抵抗だと考える。なぜなら、それらの出来事が実際に妨害的な作用を及ぼすかどうかは、ただ患者にかかっているからである。つまりたとえ戦争が勃発して分析を続けるのが困難になったとしても、それでも患者がなんとしても分析を続けにくるということはありうるし、反対に些細な出来事であったとしてもそれを利用して(=口実にして)分析に来なくなるということがあるからである。

ラカンはセミネール1巻で、フロイトのこの定義(「いつも仕事の継続を妨害するものは、抵抗と見るべきである」)と、そこの付された註について言及している。どうやら当時のフランス語訳では全然違う翻訳になっているらしく(「解釈に対する妨害はすべて心的抵抗に由来する」)、さらにフロイトが付した註が削除されているという。ラカンが強調するのは、重要なのは「仕事(=作業Arbeit)の継続」だということである。フロイトはここで「治癒Behandlung」という言葉を使わず、「作業(=仕事)Arbeit」という言葉を用いている。分析における作業とは自由連想という言語的連想であり、そこでは無意識を暴くことが問題になっている(セミネール1巻『フロイトの技法論』上巻、pp. 56-7)。

フロイトに戻る。以上のように夢の忘却とそこに関わる疑念は分析にとっての「抵抗」として作用する。「夢の忘却においては、ひとつの敵対的意図が働いていなくもないということは明らかである」(フロイト著作集2、p. 425)。ここでフロイトは、『精神分析入門』でも扱ったある夢の例を註の中で挙げている(フロイト著作集1、p. 96)。ある婦人患者は夢の中で、誰かがフロイトの『機知』を賞賛していたと報告した。次にその誰かは患者の夢の中で「運河Kanal」についてのなにかを話したのだが、ぼんやりとした夢でよく覚えていないという。患者は「運河」に関して夢の内容を忘却しており、自分の連想することの正当性に対して疑念を抱いている。翌日、その婦人患者はおそらく「運河」に関係するあることを思い出したと報告した。それは一つの頓知話である。

ドーヴァーとカレの間の船上で有名な著述家が、一人のイギリス人と話をしていた。そのイギリス人が、ある話の序に「Du sublime au ridicule il n’y a qu’un pas.〔偉大から滑稽へは一歩しか差はない〕」という文章を引用した。すると著述家は答えた、「Oui, le pas de Calais.〔いかにも、カレーからは一歩ですな〕」。
*ドーヴァー海峡はフランスとイギリスの間の海峡である。フランス側から見ると「カレ海峡」とも呼ばれる。

これはフランス人の方がうまくしてやったりというような話で、要するにフランスが偉大、イギリスは滑稽だということである(偉大なフランスから一歩のところにイギリス=滑稽がある)。ただここで重要なのは、この婦人患者の夢にとって、婦人がその不確実性に疑念を呈していた「運河Kanal=Canal=Pas〔pasには一歩という意味と運河という意味がある〕」という要素がきわめて重要だということである。患者は自分の夢を語った時には「運河」という要素について疑いを持ちながら話、翌日、「運河」に関する機知の話を持ってくる。

フロイトはこの患者について次のように述べる。「つまり、この思いつき〔「運河」の機知話〕は、夢をみた婦人がうわべはぎょうぎょうしく讃嘆してみせるが、かげにはいつも疑り深い気持ちが隠されていることを証明するものなのです。」(フロイト著作集1、p. 97)この婦人はフロイトの『機知』が褒め称えられるという場面を夢の中で見ることでフロイトに対する讃嘆を示しながら、実はフロイトに対して疑念心(=敵対的意図=抵抗)を持っている、とフロイトは分析している。少しロジックがわかりにくい。

ラカンはフロイトのこの部分の議論に言及している(S1上巻pp. 77-78)。ラカンはこの事例で起こっていることを、抵抗の際に起こる「現前」と結びつけている。

「さてこうして私達はここで『海峡』を再び見出しますが、それと同時に何を見出すでしょう。よく注意してください。というのはここで起こっていることは抵抗の瞬間に現前が出現することと同じ機能を持っているからです。」(S1上巻p. 77)

抵抗の瞬間の現前とは何かというのはまた問題であるが、一応ここでは次のように整理できる。つまり、患者は最初に夢を語った際、「運河」に関する部分を忘却し、疑いを抱いていた。そして次の日、その疑わしい要素に関して一つの機知を思い出す=思いつく。フロイトは「夢事象の心理学」において、思い出そうとする夢の要素に関する確実性への懐疑は「夢検閲の落とし子」つまり抵抗の産物であるとしていた。さらにこれが突然思い出された時、「忘却の手からふたたび奪い返されたこの部分こそは、きまって一番重要な部分なのである。それは、夢の解釈に到達する最短の道の上にあるものであって、だからまた、抵抗の風当たりがもっとも強かった部分なのである」(フロイト著作集2、p. 426)とも述べる。したがって患者は「運河」に関して抵抗を発揮し、次いで翌日に見事、夢の解釈に必要な新しい要素を思い出すことができたということになる。これが、「抵抗の瞬間に現前が出現する」ということの内容であろう。とはいっても、フロイトの事例では「抵抗の瞬間=疑い」と「現前=機知の思いつき」の間には1日ずれがあるのであるが。

さらにラカンは、婦人患者のこの思いつきが機知であることにも着目する。「『崇高から滑稽へはほんの一歩だ』、ここに夢が聴き手に関わっている点があります。なぜならそれはフロイトに向けられた言葉だからです」(S1p. 78)。フロイトの『機知』では、自分一人で笑うことのできる「滑稽」と区別して、「機知」は第三者に伝達しなければならないと論じられている。第三者に伝えられてはじめて機知は機知として成立する。ラカンによれば、婦人患者がその機知を伝えている第三者はフロイトである。婦人患者の欲望、つまり夢の本当の意味についてはフロイトもラカンも言葉足らずであるが、再構成を試みるとすれば、「崇高から滑稽へはほんの一歩だ」というのはフロイトに対する批判として現前しているということになろう。

少し『機知』の話を補っておくと、機知においては、機知作成者は笑わず、機知の聴き手だけが笑う。機知の作成は心の中の特定の抑圧を解除することによって可能となるのだが、機知作成者は抑圧の解除によって余分となるエネルギーがそのまま機知作成に向けられてしまうため、自身の笑いにエネルギーが向けられないことになる。これに対して聴き手は抑圧解除のための作業を他人にやってもらったことになるため、そのエネルギーを節約でき、笑いとして排出することができる。したがって機知を笑うためには、機知作成者と聴き手の間に心的機制のある程度の共通性がなければならない。機知作成者にとっての抑圧と同じ抑圧を持つ聴き手であれば、伝達された機知が効果を発揮できる。このようにして機知の深み、つまりその機知をどの程度の深さにおいて理解できるかということが決定されてくる。フロイトが例示しラカンが繰り返し取り上げる結婚仲介人の機知は、裕福な人々には理解されず、貧困な人々にのみ理解されうる。それは検閲を回避してメッセージを伝える手段、レトリックになりうる。そしてフロイトは見事、婦人患者の機知を読み解き、自分に対する婦人患者の批判的意図を読み取ることに成功したことになる。

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