2024/8/1

7月は詩を3篇書いた。詩を書くのは、小学校のときに学校の授業で書かされたり、自由研究の一部として親に書くように促されたりして書いたきりである。思うままに書くということはたまにやっていたが、一つの作品としてそれを書くというのはほとんど初めてと言ってよい。

音楽を作ることは高校時代からやっていた。絵は自発的にはほとんど描かない。それぞれ理由はある。音楽は、作りたくなった。音楽を聴いて、それに感化されて自分でもやりたくなる経験がある。絵は、下手だから描きたいと思えない。描きたいものと現状との間にギャップがある。詩を書くというのは僕にとって、独特な抵抗感がある。つまり言葉というものに、自分からの切り離せなさを感じるからである。作った音楽、描いた絵は、たしかに自分が作ったものであり自分らしさが出るには出るが、それでも何か自分から切り離された、あとは勝手にどうぞというような放棄が可能である。これに対して詩には、どこまでも自分というものが張り付いているように思ってしまう。つまり脱自我的に言葉を生み出すということに矛盾を強く感じる。それが同時に、言葉を作品にすることに対する強烈な「恥」がある。

要するに、詩を書くという行為自体の矛盾を処理できないのである。

でも、やってみた。やり方はわからない。まずは何も考えず思いついたフレーズを書き出してみる。なんの脈絡もない、思いつきなだけの、あるいはどこかで聞いたことがあるような月並みなフレーズが並ぶ。ちょっと奇を衒った感じの言葉もなんだか恥ずかしい。それに一行完結してしまって言葉同士のつながりが見えない。なんか違うな、となる。自分からこんこんと湧き出てくる言葉なんてありゃしない、と少しがっかりする。

詩人は詩をどうやって書いているんだろうと想像する。本棚にある数少ない詩集を開いてみる。表現とか書き方とか、まずは真似から入ってみよう。パクリになってもいい。別に誰に見せるわけでもないし。とにかく一つ完成させるまでの過程を体験してみたい。そうやってパラパラ見てみると、何かある外界の出来事について書いているものがある。なるほど、あるテーマ、自分に印象を残した出来事について、それを叙述するようにして書いてみればよいのか。それならある程度の方向性が定まる。とっかかりがある。

新宿SOMPO美術館のロートレク展に行ったので、これを題材に書いてみることにした。鑑賞した記憶を思い出しながら、思い浮かべたことや妙に印象に残ったことをフレーズ単位でノートに書き出してみる。直接的すぎるのは詩っぽくない。何か比喩表現を使ったり、遠回しな表現にしてみたい。そこで、それだけでは普通の言葉を、その言葉から連想されるなんかいい感じの表現に置換してみる。悪くない。意図的に元の意味を覆い隠しているようで少し罪悪感があるというか、自作自演な気もするが、実際に置き換えてみるとそこから連想が広がるということが起こる。つまり、書きながら、同時にその言葉を読むことで連想されるものが増殖していく。あるいは自分の受けた、具体的でないぼんやりとした印象を、何か別の具体的な形象に落とし込んで表現してみる。何か優しい感じがするなと思ったら、たとえば「暖かい光」とか、「厚い布団」とか。

そうして抽象化および具象化を行なっていくと、書き散らした言葉の諸々の中に、だんだんと象徴的に共通するものだったり、二項対立的なものだったり、通底するモチーフだったりがだんだんと浮かび上がるようにして見えてくる。おお、自分は今回はたとえば「光」のモチーフがいろんな角度から現れているな、など。そうしたら今度は光について考えて、そこから関連する事柄へ連想の範囲を広げていく。光は白い、直線的、影を生む、速い、生命の源、太陽…etc。そのようにして書き出したフレーズを並べていって、ところどころ表現を修正する。これでいいのかよくわからないけど、とりあえずできた。

(一例)
「ロオトレク」
生れてこの方/つま先立ち/ひげ根を 人々の/性器の形を/愛する/その招待状画家は/鋭角に/下方から隆起する/光によって/人々を照らし/ムーラン・ルージュの/街を鮮やかに染めあげ/われわれを 一本の/「線」の上にそっとのせる

それっぽい気はする。

でも一つ一つのフレーズが短すぎる。なにか修飾語を付加してもう少し複雑な感じにしたい。参考にいくつか読んでみると、主語述語のまとまりや、ストーリー的な展開を入れるという手段があることがわかる。上の例は、総体で見れば一つの主語述語という構造になっている。複数の主語述語を入れようとしたら、なにかストーリー的なものを作ってみる必要がある。でも、散文にならないようにする。小説にならないように、言葉同士のつながりを薄く、しかし意味が共鳴するように配置する。

ストーリーを作るとなると、どんな主体が何をするのか考えないといけない。一人称かのか三人称なのか。セリフのようなものを入れてみるか。

色んな形式があり得る。その中のどれを、どのような必然性において選択するのか。よくわからないが、とりあえず真似から入って試してみる。

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“2024/8/1” への2件のフィードバック

  1. 鈴木颯太 のアバター
    鈴木颯太

    「恥ずかしさ」の正体って何なのでしょうか。

    したいことをしようとして出来なかったり、

    したくないことをしまいとして、してしまったり、

    したとき、一般的に「恥ずかしさ」を抱くと思うのですけど。

    詩を書く時に付きまとう「恥ずかしさ」は独特で、また別の種類の感情である気もします。

    僕なんかは自由詩を書くのがいちばん恥ずかしいです。

    定型詩にすると相変わらず恥ずかしいのですが、自由詩よりマシな感じがします。

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    1. 花澤創一郎 のアバター
      花澤創一郎

      僕は、恥ずかしさの正体は自分の中にある理想のようなものだと思います。なぜ恥ずかしいか、それは自分の現状が、理想と比べて劣っていると考えるからです。そんなお粗末なものを人様にお出しするな、と、自分で自分に言っている。

      それを完全に解除することは難しいですが、付き合い方を模索することはできると思います。どういうふうに意識を持っていけば楽になるか、自意識を薄められるか。量をこなすことで慣れることもあります。

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