2024/7/28

昨日の続き。小川亮「禁忌と意味生成——レヴィ=ストロースその可能性の中心」(出口顯 編『読解レヴィ=ストロース』(2011)所収)を読み解く。

前節の最後に小川の重要な指摘がある。レヴィ=ストロース、柄谷行人らのシステム理論は、システムの外部やシステム以前の状態を、システムから切り離されたものとして考えるのではなく、システムの内部に織り込まれた空虚、あるいはシステムがそのように存在していることの無根拠性を投影したものであると考える。小川はこの無根拠性を「禁止=交換による秩序形成=主体生成そのものの『決定不能性』」と言い換える。しかしさらに小川は、そうはいっても決定はなされる(社会は形成される)ということの説明が必要であると主張する。そして次のように述べる。「決定不能にもかかわらず、決定されるというのでは十分ではない。そうではなく、決定不能であるゆえに、決定はつねにすでになされ、主体が生成されるのである」(p. 142)。システムの存在が無根拠であるまさにそれゆえに、システムは存在するのだという。小川によればこのことが「意味生成と権力の場」であり、「マナ」にも関わる議論であるらしいが、ここまでではまだよくわからない主張である。

⒊カオスとコスモスの弁証法批判

小川はクリステヴァの「セミオティック」と「サンボリック」の議論を引く。そこでは象徴秩序のサンボリックに対するカオスとして「セミオティック」が規定される。だがこれまで見てきたように、システム以前あるいは外部の「カオス」は、システムと無関係に存在するわけではない、あるいは少なくともシステムと無関係に思考することはできない。したがって、そういったカオスは「象徴的秩序そのものの未完結性の投射であり、外部や以前のカオス性・未完成性は、ある象徴的秩序が完結したと想定して初めて、発見されるものなのである」(p. 143)。ここにも、決定不能であるがゆえに決定はすでに行われている、という小川の主張が響いている。システム内部に織り込まれた未完成性は、完成したと想定することで初めて発見される。「完成していないのに完成したと思う」ことが、カオスが見出される理由である。このいわば認識のずれのようなものは、ここでは言及されていないけれども、いわゆるシニフィエに対するシニフィアンの過剰という人間の知的条件を言い換えたものになっているだろうか。

したがって、クリステヴァがサンボリック「以前」としてセミオティックを語る時、その語りは「象徴的秩序の完結に先立つ場面としての発生や歴史を語るための神話-理論的仮説」(p. 144)である。だが、このように発生の神話を語ることには意義がある。それは小川の言い方では「象徴的秩序を活性化するという意義」である。カオス・発生・起源についての物語は、それを語るという行為によってシステムを再活性化するらしい。これは、レヴィ=ストロースが「呪術師とその呪術」などで主張し続けてきた呪術師の役割であろう。そしてマリノフスキーが言語の原始的形態を呪術になぞらえ、社会的行為として論じたように(「原始言語における意味の問題」『意味の意味』所収)、呪術的・社会的行為としての「語り」がシステムにとってもつ意義を明らかにしている。シニフィエに対するシニフィアンの過剰という知的条件、世界が明らかに意味を持って人間に迫っていながらそれを処理し切ることができない時、呪術師は神話を語り再演することによって、その過剰なシニフィアンを自由に用いてdisposer、新しい秩序のもとに統一を回復する。「言葉を話す」ことの根源的な機能がある。

⒋マナと権力

この最終節から小川は、象徴的秩序の「全域性」(全体性)について論じ始める。というのも、システムの内部と外部が決定不能(「決定不能」という表現の使い方がブレている気もするが…)であるにもかかわらず、外部を投射的に設定することが意味するのは、「象徴的秩序形成が決定不能であるゆえに、『全域性』を持たなければならないこと」(p. 145)だからである。同様に木村敏の「非対称性」(=主体性)の議論、つまり自己と自己ならざるものとの分離が、両者は相対的であるにもかかわらず、あくまでも「自己」の場で行われ、そこで非対称性が生じる(=主体性が生じる)ということも、この象徴的秩序の全域性から帰結することであるとされる。

そしてこのことが「権力」の問題に関わってくる。「相対的でばらばらな方向を持ちうる局所的な諸交換関係に、一方向的な非対称性を刻印しながら、象徴的秩序の全域を貫くもの、それが権力である」(p. 146)。つまり、本来は相対的で無方向的・多方向的であるはずの力は、権力という一方向性が発生することによって事後的・回顧的に現れてくるものだということである。システム以前はシステムが発生することによって、その全域性から回顧(懐古)される。同様に、権力のないカオス状態は、非対称性・一方向性としての権力が発生することで、回顧的・神話的に想定されるものだということである。ただ、なぜそこに「全域性(全体性)」が関わるのだろうか?

次のところからレヴィ=ストロースのお馴染みの「マナ」論が扱われる。興味深いのは、小川がレヴィ=ストロースの「象徴体系と認識の対立」(つまりシニフィアンのすでに完成された体系と、それをシニフィエに結びつけていく遅々とした認識という対立)を、丸山圭三郎を引きながら、ソシュールにおけるラングとパロールの対立と見做している点である。小川は丸山の「構成された構造」(=ラング)と「構成する構造=主体」(=パロール)のうち、レヴィ=ストロースのいう「認識」は「構成する構造=主体」の過程であると主張する。

この辺りの記述を見ても分かるように、やはりこれまで象徴的秩序の「未完成性」「未完結性」「非決定性」などと言われていたものは、シニフィアンの過剰に対応している。そして「浮遊するシニフィアン」が「シニフィアンの過剰分の代補的割り当て量を事物間に分配する機能」を持つ。ここで「supplémentaire」に「代補的」という訳語を充てているのは小川がデリダのレヴィ=ストロース論を意識しているからと思われる(デリダはレヴィ=ストロースの記述の「supplémentaire」が自分の哲学における「代補」であると読み替えていく)。

ただ、シニフィアンをシニフィエに結び合わせていく人間の認識過程がパロールすなわち「語り」であるとすると、神話を語ることとの違いは何であるか。おそらくそれは、交換言語と詩的言語の違いに対応しているといえよう。言葉が交換されるものとして扱われる時、それは象徴秩序の規則に則ったものである。それが主体性を生み出し、権力を生み出す。言表内容と言表行為の区別が混同され、意味作用が発生する。これに対して自己言及の禁忌が破られ、言葉の自家消費である詩的言語が発せられると、システムの無根拠性=非決定性が露出する。それは忌まわしいものではあるけれども、システムの外部・起源を神話的に語るものでもあり、システムはそれによって再活性化される。

小川はさらに、「ゼロ記号としてのマナ」論が、禁止=交換としてのタブー論と表裏一体であると論じる。「その関係で重要なのは、マナが、禁止=交換によって成立する象徴的秩序の『全域性』の徴であるということである」(p. 148)。浅田彰の「4×4の正方形の中で1から15の数字を並び替えるゲームにおける空いた枡」という比喩表現が引かれる(柄谷・岩井・浅田「共同討議 マルクス・貨幣・言語」「現代思想」1983年3月号、p. 233)。つまり16のマスのうち15のマスが埋められると、1つの空いたますが生じる。そしてこの空いたマスこそが、あらゆる要素を4×4という全体の空間と結びつけるものである。「いかなる局所的な二者関係も、マナ=ゼロ記号によって全域的な価値基準と連節されているのである」(p. 149)。小川はシステム内部の局所的な関係が、つねにそのシステム全体から規定されていることを繰り返し強調している。

さらにこの「空いたマス」というのが、マナであり、あるいは社会内の被差別民であったりする。この「中心となる唯一者を全員で排除して同一性(価値)を形成する形成は、全域性を徴づけ、過剰を各成員に分配する一つの形式」である。シニフィアンの過剰部分、空いたマスを忌避することが象徴的秩序を形成する。その時、過剰部分は秩序内の成員に分配される…これはどういうことか。

なかなかイメージを掴みにくい。秩序が成立する。しかしその秩序はつねに未完成である(シニフィアンの過剰とシニフィエの不足)。それが秩序それ自身の無根拠性でもある。しかし秩序は全域的でなければならない。したがってそれはそのシニフィアンの過剰を含み込んで全域的に展開してしまっている。がゆえに、システム内部に空いたマスが存在する。空いたマスはシニフィエの不足を補って無理やり全域性を作り出すものである。シニフィアンの過剰分、代補的割り当て量が事物間に分配されるとはどういうことなのか。レヴィ=ストロースの言い方では、「人間はこれを象徴的思惟の法則に従って事物の間に配分するのであり、この法則の研究は民族学者と言語学者の仕事に属する」。象徴的思惟の法則に従って事物の間に配分するというのは、おそらくは呪術師などが神話を語り出す時に、無意識的な象徴法則に従っており、特定の諸事物はその神話の中でそれぞれの役割を演じることになるということだろう。

諸事物への配分というのは、貨幣の分配、富の分配ということと無関係ではないようにも思える。実際、ハウは贈与された者に取り憑くように、負債感として作用する。贈与を受けた者(富を配分された者)はそれを次の人に受け渡さないといけない感覚にとらわれる。そのようにして交換が駆動される。そこでは自家消費が禁止されている。自家消費の禁止=交換の駆動は、システムの自己言及=無根拠性の露出を忌避するようにして行われる。つまりそこでは無根拠性の覆い隠し=意味生成が行われている。そうしてハウはまた別の位置に移動する。ハウが移動するとはつまり、空いたマスに対するその構造の成員全体が動くということでもある。それは相対運動である。

過剰なシニフィアン=過剰な意味作用を配分するというのは、なにかそれを切り分けて分配するというよりも、贈与を駆動し富を移動させることを意味しているのだろうか。つまり空いたマスの配置を決めることは、諸事物の配置を決めることと相対的にイコールである。呪術師の仕事はそれをすることなのか。そうしてゲームの初期設定を行う神話的な語りがあり、次いで交換的な語りがある。

マナによってシニフィアンとシニフィエのずれが埋め合わせるとはつまり、シニフィアンのフィールドにシニフィエが配置されると同時に、余った空白のマスが存在する、ということか。つまりマナが「後から」ズレを埋め合わせるというよりは、シニフィエの配置とマナの発生(空白のマスの発生)は同時的である。しかし、象徴的秩序はつねにシニフィアンの体系の全体を用いる。全体を用いるから、余りが出る。

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“2024/7/28”. への1件のコメント

  1. 2024/9/20 – shanazawa.com

    […] 7/27(https://shanazawa4.wordpress.com/2024/07/27/2024-7-27/)および28日(https://shanazawa4.wordpress.com/2024/07/28/2024-7-28/)に、小田亮の論文「禁忌と意味生成——レヴィ=ストロースその可能性の中心」の読解を行なった。その後、ラカンとレヴィ=ストロースに関する先行研究としてメールマンMehlmanの論文を扱ったのだが、メールマンはレヴィ=ストロースにおけるシニフィアンとシニフィエが、ソシュールにおいてはシニフィアンとシニフィエではなく、むしろラングとパロールの対立にほかならないとして議論を進めていた。そこで小田亮も似たようなことを言っていたように思っていたのだが(https://shanazawa4.wordpress.com/2024/09/04/2024-9-4/)、実際に当該部分の記述を発見できた。なお、武蔵野市図書館の電子サービスで読んだので、頁数不明である。 […]

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2024/9/20 – shanazawa.com への返信 コメントをキャンセル