2024/7/27

小田亮「禁忌と意味生成——レヴィ=ストロースその可能性の中心」。

⒈タブーの人類学的理論

エドマンド・リーチのタブー論。「タブーとされるのは、言語による世界の分節と体系化において問題となるような、中間的・両義的存在である」。幼児が言語する前には、事物の境界がはっきりしていない。それが他と区別・分離された「事物」になるためには、境界部分の中間的存在が「非-事物」としてタブー化されなければならないとされる。ただ、ここでは世界を構成する主体の自己中心性が自明とされてしまっている。(小田は、自己が他から差異化される以前の自他未分の状態を考えている)

これに対してアルフレッド・ジェルは、自己が構成される際に要請されるタブーを視野に入れている。例えばウメダ社会やニューギニア高地社会では、「自分で殺した獲物を消費することのタブー」や「Aという魚をある種の人々が食べることのタブー」があるが、これは「自分で殺した獲物」や「Aという魚」が「自己を表象する」からだとされる。(わかりにくい)(後に出てくる自己言及の禁止に関連するか?)

だが、小田によればジェルの議論もまた、自己の構成の前提に「間主観的現実」がある点で、自己中心性が密輸入されているという(cf. 山口節郎『社会と意味』(1982)、p. 175〜)。つまり、間主観的現実を作る交換(コミュニケーション)が先にあって、その次に自己を構成するタブー(禁止)が来る、というふうに、交換とタブー(禁止)とが別々になっている。だが小田によれば、交換とタブーとは同じ事柄の表裏である。この点を指摘したのがレヴィ=ストロースである。

⒉インセスト・タブーと主体生成

レヴィ=ストロースは、あらゆる社会に普遍的なインセストの禁止が、女性の交換の命令であることを明らかにした(禁止=交換)。そしてこの禁止=交換が、女性の交換主体である家族や、交換の場である社会を生成させたとされる。つまり「主体」は禁止=交換によって発生する。

レヴィ=ストロースによれば、「自然」は普遍的な秩序であり、「文化」は特殊で恣意的な規則の秩序である。すなわち自然と文化の対立は、普遍性と特殊性(=規則)の対立である。だがインセストの禁止は、規則であると同時に普遍的である。それゆえインセストの禁止だけは、「社会状態を前提にしてはじめて必然的となるほかの特殊な規則と違って、社会状態そのものである」。インセストの禁止は、自然からの社会の生成それ自体に関わる根源的な規則である。

さらに木村敏の理論が紹介されて、主体生成においては自己の側から、自己の場において、自己ならざるものが分離されるというところに非対称性があると言われる。そしてこの差異化が非自己ではなく自己の場において行われるということに、何らの必然性は存在しない。小田はこれを、インセスト禁忌という禁止=交換による社会形成=主体生成には根拠がないというレヴィ=ストロースの主張と接続する。こうして、主体とは偶然に生じた差異化の場としての、「差異を生み出す差異化の構造」であると規定される。

禁止=交換(の命令)は、レヴィ=ストロースが交換の三つの水準として規定したように、女性だけでなく財と言葉においても適用される。したがって、女性の交換、財の交換、言葉の交換にそれぞれ対応する禁止とは、インセストの禁止、自家消費の禁止、詩的言語の禁止(言葉を交換せずに自分で享受?することが詩的言語なのだろうか)である。そして同時に、これらの禁止=交換によって、女性交換の主体たる「家族」を、財の交換の主体たる「世帯」(消費=再配分の単位)を、言葉の交換主体たる「語る主体」を生成する。

小田はここに、柄谷行人の「自己言及性の禁止」という概念を持ってくる(柄谷行人『隠喩としての建築』)。小田の説明によれば、「親族・経済・言語体系などの象徴的秩序の形成は、本来、自己言及的な差異体系であるものを、自己言及性の禁止によって、論理階型〔ロジカル・タイプ〕的な差異体系とすることと言い換えることができる」。 「自己言及的な差異体系」⇨「論理階型的な差異体系」への以降を、禁止=交換が可能にするということだろう。が、「論理階型」ってなんだ?

自己言及と論理階型といえばラッセルのパラドクスなどが思い浮かぶ。自己言及のパラドクスである。ちょっとラカンにひきつけて考えてみると、ラカンもまたセミネール5巻くらいから、メタ言語やパラドクスについて考え始めている。荒谷大輔『ラカンの哲学』を見てみる。例えば「私は嘘をつく」というおなじみの自己言及文は、ラカンによれば、それだけでは何も意味しない単なるシニフィアン連鎖であるという。ラカンにおいて文が意味をなすとは、その言表行為の主体と言表内容の主体とが同じ「私」であると確信されたときに成立する(言表行為の主体と言表内容の主体という区別が、論理階層の区別に相当する)(なぜその区別がなくなったときに意味が発生するのかは一旦割愛)。したがって、言表行為の「私」と言表内容の「私」が決して一致し得ない「私は嘘をつく」というシニフィアン連鎖は意味作用を生成することができないことになる。

このように考えると、「自己言及的な差異体系」とはつまり言表内容と言表行為という二つの論理階層が区別され、それ自体では意味をなさない「詩的言語」の次元であるといえる。それが禁止され、交換が命令され、言葉の交換が行われることで意味が生成する(コミュニケーション可能となる)。「論理階型的な差異体系」という言い方はいまいちわからないが、要するに二つの論理階層における「私」(主体)が区別されない、日常的な言語使用における差異体系のことだと考えることができよう。同様に、インセストや財の自家消費もまた、社会の中に位置を持たず、意味を持たない、それゆえ主体も発生しない、社会の無根拠性が露出する場面となる。そこではある種の自己言及が存在し、行為の主体と内容の主体とが一致しない状況が存在する。

ここでさらに思い出すのは、レヴィ=ストロースが『親族の基本構造』の最終部分と、『構造人類学』所収「言語と社会」の中で述べていた、言語の交換に関する仮説である。以下長い引用↓

〔引用はじめ〕

『親族の基本構造』(1949)
p795「かくして言語使用と外婚は、同一の根本的状況に対する二つの解決策を表すと言っていい。第一の解決策はすでに高い完成度に達している。第二の解決策は近似的で不安定な状態にとどまってきた。しかしこの落差は埋め合わされないわけでない。本性からして言語記号は、バベルの塔をもって終わった段階に長らくとどまることができなかった。それまで話はまだ各個別集団の本質的な財であった。記号であるだけでなく価値でもあった。語は大切に保管され、慎重に発音され、別の語と交換され、その別の語の開示された意味はよそ者をつなぎ入れ、よそ者を集団につなぎ入れることでつなぎ入れた側もまたよそ者につながれるのだった。相手を理解し自分を理解させることは、じつに自分のもつなにかを相手に与えて相手に働きかけることなのだから。コミュニケーションをおこなう二人の個体それぞれの態度は、コミュニケーションによってしか生じない意味を獲得する。コミュニケーションを機に、なすことと考えていることとが緊密に連撃するようになるのである。もはや誰も行為と思考を際手に取り違えることができない。しかし語がすべての人々の共有物となりえ、記号的機能が価値的性格を横領してしまうにつれ、言語使用は科学文明と手を取り合って、知覚の貧困化、知覚のもつ情緒的・美的・魔術的含みの奪、思考の図式化を促した。」
p795-6「言語交通 〔談話discours)からコミュニケーションの別領域である縁組に目を転じると、状況は逆の様相を呈する。象徴的思考の出現は女を、発せられる言葉のように、交換されるモノに変えざるをえなくなったはずである。実際、この新たなケースではそうすることが、二つの相容れない側面を示す女の矛盾を乗り越える、唯一の手段であった。欲望の固有の対象、つまりは性本能を煽る占有の対象である一方、まさにそうであるがゆえに同時に他者の欲望の向けられる主体、すなわち他者と縁組させて他者をつなぎ入れる手段でもあるとの二側面である。しかし女はけっして純然たる記号になりえなかった。じつに男たちの世界のなかにあっても、女はやはり一人の生身の人間であり、記号として定義されるかぎりでも、記号を生み出す人間を女のうちに認めざるをえないからである。婚姻をとおした男たちの対話において、女はけっして話されるだけのものではない。ある型のコミュニケーションに用いられる記号の、あるカテゴリーを表す女一般に対し、じつにそれぞれの女は個別的な価値をもちつづける。(婚姻をめぐる男による〕二重唱のなかで、結婚の前であろうとあとであろうと、自分の声部を維持しようとする彼女の才能がもたらす、それは価値である。要するに、完全に記号と化してしまう語とは逆に、女は記号でありつつ同時に価値でもありつづけた。起源における人間的コミュニケーションの世界をおそらく隅々まで浸していたであろうあの情緒的豊かさ、あの熱気、あの神秘を、だからこそ男女関係は失わずにいたのである。」
p796「しかし象徴的思考とこの思考の集団的形式をかたちづくる社会生活とが生み出されたときの、沸き立つ感情と熱気の充満する雰囲気は、いまでもその昼気楼で我々の夢想を熱くする。交換法則の裏をかいて失わずして獲得し、分け合わずして草受することのできると肩じられた、あのつかのまの瞬間をつかみとり固定することを、今日まで人類は夢見てきた。世界の端と端、時間の二つの極みでシュメール神話とアンダマン神話、黄金時代と来世が響き合う。シュメール神話は、諸言語の混済が語をすべての人の共有物に変えた瞬間に原初の幸福の終わりを置き、アンダマン神話は、女がもはや交換されなくなる天国として彼岸の至福を描く。いずれの神話も人が自分とのあいだでだけ生きていける甘美な世界、社会的人間には永遠に与えられることのないその幸福感を、過去か未来かの違いはあれ、等しくたどり着けない果てへと送り返しているのである。」

「言語と社会」(1951)
p68「さらに一歩を進めることが可能であろうか。コミュニケーションの概念を拡張して、外婚制、近親相姦の禁止に由来する諸規則までをそこに含めるならば、われわれは逆に、言語の起源という、つねに神秘に包まれている問題にいくらかの光を投げることができるのである。婚姻の規則は、言語に比して粗雑だがそれと同じタイプの複雑な体系をなしており、この体系の中には言語と共通する古い要素がおそらく数多く保存されていよう。われわれはみな語が記号であることを認めており、語がかつては価値でもあったことを知っているのは、いまやわれわれのうちで詩人だけである。これに反して社会集団は、女性を本質的なタイプの価値と見なしているので、逆にこれらの価値が意味作用の体系に組み入れられることがありうるなどと考えるのは、われわれにとって実に骨が折れる。われわれは親族体系にそうしたものとしての資格を与えたのだが、それもやっとそうし始めたというにすぎない。このような両義性から来る誤解は、『親族の基本構造』にしばしば向けられた批判の中に滑稽な形で認められる。「女性蔑視の書だ」とある人人はいった。女性がものとして扱われているからというのだ。驚いて当然なのは、むしろ記号体系の要素としての役割を女性に与えるということであろう。だが、次の点に注意しなければならない。語や音素が価値としての性格を失って(それも、ほんとうに失ったというよりはむしろ見かけの上で失ったのだが)単なる記号に変ったとしても、女性に関して同様の変化が完全に起ることはありえない。女性とはちがって、語は語りはしない。一方、女性は記号であると同時に記号を生み出するのであり、そうしたものとしての女性をシンポルや換え札の状惑に還元することはできない。」
p68-9「しかし、この理論上の困難にはまた一つの利点がある。婚期の規則や親族に関する語棄は、結局のところ人間相互間のコミュニケーションの体系なのだが、この体系の中での女性の両義的な位置は、はるか昔に人間と語のあいだに存在したかもしれぬ関係について、粗雑だが使いものになるイメージを提供している。それゆえ、このようなまわり道をすることによって、言語が発生した時期を特徴づける心理的・社会学的様相を近似的に反映した、ある種の状態に接近できるであろう。女性の場合と同様、入間をして言葉を「交換」せしめた原初の衝動は、ある二重化された表象ーそれ自体、はじめて出現したシンボル機能の結果である二重化された表象 representation dedoubleeーのうちに求められるべきではあるまいか。ある音が話す者にとっても聞く者にとってもある直接的な価値を提供するものとして把握されるやいなや、それはたちまち矛盾した性質を帯び、その矛盾した性質を中和するには、あらゆる社会的生活が結局のところそうであるような、あの相補的な価値の交換をもってするほかなくなるのだ。」

〔引用終わり〕

ここでレヴィ=ストロースが用いている「二重化された表象 representation dedoublee」という言葉はフーコー『言葉と物』の中にも出てくるのであるが、そこでは、記号それ自体の表象と、記号が指示するものの表象との、二つの表象が重なっていることを意味していた。そしてレヴィ=ストロースによれば、その二重の表象は「矛盾した性質」を帯び、この矛盾した性質を「中和」するためには、「相補的な価値の交換」を必要としたのだとされる。これはまさに、自己言及的=無意味な詩的言語から、有意味な交換言語への移行を指しているように思われる。しかも「中和(おそらくneutralisation、neutraliser)」とは元々は言語学の用語で、特定の状況で二つの音素の弁別(区別)が消去されるということを意味するのであるが、まさに二つの相矛盾する表象の区別が消去されるということが、言表行為と言表内容との区別が消去され意味が発生するという、ラカンのパラドクス論とも調和する。レヴィ=ストロースは言語交換におけるこの議論を、女性交換においても並行的に考えており、女性交換における二重化された表象は、社会的な意味を持つ存在としての表象と、その女性その人自身の価値の表象である。あるいはまた、記号としての女性という表象と、記号を生み出す者(語る者)としての女性という表象である。

こうして、小田の「逆にいえば、象徴的秩序を成立させる禁止自体が、象徴的秩序を無にするもの、つまり『インセスト』『自家消費』『詩的言語』といった論理階型〔ロジカル・タイプ〕の混同(すなわち、主体間関係と主体内関係との混同)を否応なく生み出すのである」という記述は理解可能なものとなる。主体間関係とは交換関係であり、主体内関係とは主体の中の自己言及を指していると思われる。この二つの関係が混同されると、言表内容としての「私」と言表行為としての「私」とが区別されなくなり、意味作用が発生する(ここはできればもう少しロジックを詰めたい)。

さらに、小田によれば「自己言及性としてのインセスト・自家消費・詩的言語などのいわばカオスは、象徴的秩序の外部に前もって存在するのではなく、レヴィ=ストロースや木村が示唆する、自己言及性の禁止(=交換の命令)による象徴的秩序形成(=主体生成)の無根拠性から生じるものである」。ここで社会形成の「無根拠性」というのが、インセストや詩的言語がカオスであることの理由になっている。そういえば、デリダも指摘するように、レヴィ=ストロースの仕事においては「時間と歴史が中性化〔中和〕されている」(デリダ『エクリチュールと差異』(合田・谷口訳p. 588))。つまり、ある新しい構造やシステムの誕生は、それ以前の条件から断絶的に起こる。レヴィ=ストロースは言語の誕生が「一挙に」生じた、としか言わない。歴史は連続的であるが、(構造主義の)時間は非連続的なものである。したがって構造主義の時間においては「偶然や非連続性の概念が不可欠となる」(デリダ)。構造主義的枠組みにおいては、「(システム外部としての)システム以前」ということを考えることはできず、それはあくまでもシステム内部に備わる「無根拠・欠如」をそのようなもの(=システム以前)として投影的に思考することができるのみである。

⒊カオスとコスモスの弁証法批判

⒋マナと権力

続きはまた明日。

1965年の曲とは思えない。

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“2024/7/27”. への1件のコメント

  1. 2024/9/20 – shanazawa.com

    […] 7/27(https://shanazawa4.wordpress.com/2024/07/27/2024-7-27/)および28日(https://shanazawa4.wordpress.com/2024/07/28/2024-7-28/)に、小田亮の論文「禁忌と意味生成——レヴィ=ストロースその可能性の中心」の読解を行なった。その後、ラカンとレヴィ=ストロースに関する先行研究としてメールマンMehlmanの論文を扱ったのだが、メールマンはレヴィ=ストロースにおけるシニフィアンとシニフィエが、ソシュールにおいてはシニフィアンとシニフィエではなく、むしろラングとパロールの対立にほかならないとして議論を進めていた。そこで小田亮も似たようなことを言っていたように思っていたのだが(https://shanazawa4.wordpress.com/2024/09/04/2024-9-4/)、実際に当該部分の記述を発見できた。なお、武蔵野市図書館の電子サービスで読んだので、頁数不明である。 […]

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