書こうと思っている博士論文の形式について。
ラカンの「文字の審級」論文の註解(exégèse)的研究にしようと思っている。序論として「いかにラカンを読むか——ラカン研究序説」を置いて、その後の部分で部分を区切りながら逐語的註解、補論として日本語訳をつけようと思っている。
序論は従来のラカン研究を分類して、それに対して必要なラカン研究の方法論について考察する。その際、ラカンの言説の特徴について考察する。例えば今日、こんなふうに考えてみた。
・従来のラカン研究は、大まかに以下のように分類できる(大まかな見取り図を描こうとするものであって、厳密に網羅しようという意図はない);
- レジュメ研究:エクリやセミネールの内容を「要約(レジュメ)」する研究。ラカンの言説はそれ自体難解であるため、内容をまとめること自体が研究になる。この手の研究は古いものか、紀要論文か、すでに地位を得た研究者によるラカン紹介に多い。というのも、査読論文としては先行研究や先行解釈の検討に欠けるからである。ラカンとフロイトくらいしか参考にされず、先行研究との対話と蓄積に欠けるのが問題。
- 解説研究:ラカンの思想を初学者にもわかりやすく紹介する、「入門」系の研究。これもまた、学問的研究というよりは噛み砕いだ入門書に多い。巻末に文献紹介があったりはするが、踏み込んだ議論には向かない。
- 思想史的研究:ラカンが思想史的にいかなる位置にいたのかを広く見る研究。ラカンの言説に特徴的な、異分野横断性に関連しており、筆者も一時期はこの方向の研究が必要だと考えていた。実際、例えば「ラカンとエー」「ラカンとレヴィ=ストロース」「ラカンとクライン」等々、フランスにはこの手の研究が多く存在する。この手の研究に移行する動機は理解できるが、結局のところ、ラカンのテクストを読まないためのアリバイになるという欠点がある(この点ついては解説研究も同じである)。もちろん、ラカンの言説はいくつかの意味で極めてハイコンテクストであり、このコンテクストをまず知っておく、ということがある程度必須である。しかし、「コンテクストを埋めれば読めるようになる」という願望も誤りである。コンテクストの充足を目標に、ラカンのテクストから離れて大きく迂回し、結局は戻って来れなくなる。そして、(レジュメ研究、解説研究も同様に)ラカンの言説を「理解可能なもの」としてしか受け取らなくなる。それはつまり、理解できる部分だけ読み、理解できない部分には目を瞑るということである。この方法を採用する研究者は文献学的作業に勤しみ、未邦訳・未出版の資料を探し求める、そこにラカンを理解可能にするための新たなる道具を求めて。その結果、ラカンが思考していた事柄そのものを自分の頭で考えることをやめ、枝葉の資料を主要なテクストよりも重視するという転倒を起こす。だが、その「枝葉の重視」はラカンのテクストの微妙なニュアンスをよく読むということでは全然なく、そちらの枝葉の方が「理解可能」だからなのだ。
これらは、ラカンのテクストのハイコンテクスト性に対応する時に生じてくる方向性であると一括できる。これに対して筆者は、「註解的研究」の必要性を説きたい(後述)。
従来の研究にはまた、
- 応用研究:ラカン思想を現代的問題や、異分野、文芸批評に応用する。
- 臨床研究:実際の医療実践、臨床実践と絡めて論じる。
がある。
これらの研究の欠点は、ラカンの言説をチャンクごとに「教義」化し、その教義単位で操作することになりがちなことである。これは、上に述べた「コンテクスト充足型」とは対照的に、もはやラカンの言説の「理解」を断念している(意識的でないにせよ)。しかし、この方向は、しばしばラカンの主張として現れる「理解してしまうことへの抵抗」という教義と適合するように見えるため、カタい方法である。しかし結局は、理解への抵抗という口実で教義的理解に安住するという構造がある。この場合もラカンのテクストを読んでいないことは明らかである。彼らは「コンテクスト充足型」のようにラカンの言説の「理解できない枝葉」を捨象したりはしないが、しかしその枝葉の意味を聞かれると答えられない(前者は理解できない言葉は使わないが、後者は言葉を理解していないまま使っている)。そしてまた、教義操作によってやり取りしあっている研究者同士でも、具体的にそれをどう解釈しているのか、「チャンク」の中に立ち入って見ると、それぞれに解釈が共有されていないことが判明する。ただ、ラカンの言説がある主題ごとに「チャンク」化され(例えば「鏡像段階」論や、アンナ・フロイト批判など)、しばしばそのチャンクを組み合わせて言説を構成しているのは事実である。
この方向性において必要な研究は、「理論拡張的研究」であると主張したい。これは主に精神分析家が行うべき研究である。実際の臨床「経験」をもとに、精神分析理論の拡張を行う。その際、単なる「応用研究」との違いは、それが人間の心的現象のメカニズムを根本的に解明するための理論的拡張になるという点である。
・以上では「註解的研究」と「理論拡張的研究」という、必要な二つの方向性を示した。これは、それぞれ「テクスト」の真理と「経験」の真理という、ナンシー&ラバルトも強調していたラカンにおける真理の二重性に対応している。精神分析学の研究者や哲学者、批評家は前者を、臨床化や精神分析家は後者を担うことが望まれる。
ラカンのテクストの難解さに直面した時の反応・アプローチは大きく分かれ、これが上に述べた研究方法の分化につながっている。
- 教義を受け入れ、教義単位で操作する。→応用研究および臨床研究へ
- 文献学的労働によって「理解可能性」の範囲で作業を行う。→レジュメ研究、解説研究、思想史研究(コンテクスト充足型)
- 読むのを放棄。
この三つである。読むのを放棄した読者は、教義研究に対して軽蔑を向ける。教義研究もまた、ラカンを読まない読者を軽蔑しているが、両者は互いに憎み合うことで支え合っている。コンテクスト充足型は、読むのはやめないが、教義研究の空虚さに辟易し、ラカンを「理解」しようと努める。また、「放棄」者に対してラカン思想への間口を広くしようとする。しかし結局は、彼ら自身が読まないどころか、その読者もまた読まないまま、彼ら自身が提供する噛み砕かれた「理解可能な」「わかりやすい」教義に満足するのである。あたかも、親の消化物を口移しに受け入れる雛鳥のように。その時、「解説者」は自分が忌み嫌っていた教義操作者の役割を演じていることに気づいていない。
・そこで、ラカンをいかに読むかをもう一度考えることが重要なのだ。そのためには、ラカンの言説体系がいかなるものであるのか、その言説がいかなる特徴を持つのか、そしてどうすることがそれを「読む」ことになるのか、ということを思考しなければならない。これも網羅するわけではないが、四つほど考えてみた。
ラカンの言説の特徴:
①断言口調:フロイトの言説と異なる(フロイトはもっと科学者として、仮説として思考しながら語る。これに対してラカンは、全てを知っているかのように語る)。ある種の立場の表面に見える。これは、デリダやミルネールの見るところではパロールが「真理」を表現するというラカンの主張に対応している。
②晦渋な文飾、文彩:本論に直接的に関係しないさまざまな知識への当てこすりや、比喩表現、間接的な言い回しなど。「機知」に関係している。
③論争的性格:当時流行していた議論や、周囲の研究者とのやりとりという性格。時代的性格を帯びている。
④異分野横断的:言語学、人類学、哲学、文学、サイバネティクスなど、多分野にわたって言説を展開させ、しかも異分野の概念を改変した上で「流用détournement」(ナンシー&ラバルト)する。この特徴はミルネールも指摘するところで(彼は、ラカンの言説が異分野との境界的接触・衝突によって浮かび上がるという性格を、「言説的唯物論」と呼ぶ)、ここから思想史的研究が多く生じることになったと説明できる。
→②③④は、どれもラカンのテクストに特徴的な「ハイコンテクスト性」によって大まかに括られる。
ここで疑問。
Q. ラカンの言説で主題となっている、真理や文彩といった言語の特徴が、それを論じるラカンの文章においても体現されていることにはいかなる意義があるのか?ラカンは彼が論じたいことを、もっとわかりやすく書けばよかったのではないか(書けたはずではないか)?そう問うことは、問題をつかめていないが故の誤った疑問なのか(これが「いかにラカンを読むか」ということの中心的問題である。)?そしてまた、この問いを問う我々がこれに答えようとする時、その言説(文体)はいかなるものであるべきか(これが、ラカン研究がいかにあるべきかという問いの別の表現でもある。)?
→多分、これに「はい、こうです」と答えることはできないのではないか、と推測。つまり、これに答えるということ自体がラカンの註解的研究を必要とし、パフォーマティヴにしか論じることができないのではないか。それを主題にして論じるということ自体の、記述とパフォーマンスとの入れ子構造においてしか、それを読者に提示できないのではないだろうか。そしてまた、その回答を理解するためには、読者自身がこの入れ子構造に参与するということが結局は必要だという構造になっているのではないだろうか。こうした見通しのもとに、註解的研究の序論としたい。ちなみにこれらのことを書くのに、ナンシー&ラバルトの『le titre de la lettre』やミルネールの『Oeuvre claire』、それからLeo Straussの『Persecution and the art of writing』などを検討しようと思っている(『エクリ』と「セミネール」の関係、プラトンとアリストテレス、そしてésotériqueとexotériqueの関係まで含めて)。
「補遺」として日本語訳をつけ、本論は註解的研究を行いたいのだが、その形式について。
これからその具体的方法は考えようと思っているし、特に聖書註解などをいくつか参照してみたいのだが、例えばまず
①全体を見渡してその内容・構造ごとに分割する。
②区切った部分ごとに「註釈Note」と「解釈Interprétation」を順に書く(合わせて「註解Exégèse」)。
「註釈」では必要なコンテクスト充足する。そこでラカンが言及している資料や、フロイトのもとの議論などについて徹底的に調べて補足説明をする。
「解釈」では「註釈」を踏まえて実際のラカンの文章がどのように読めるか、先行研究での解釈を検討、さらにそれが人間の心的現象や言語についていかなる解明をもたらすかについての発展的・哲学的考察を行う。その際、ラカン批判が行われることもある。
これを論文の全体にわたって行う。ただ、例えばナンシー&ラバルトなんかは、書籍の第一部と第二部に分けて「文字の審級」をある意味で二回読み返している。つまり読解を反復して、異なる側面からもう一度見返す、ということをしている。これは確かに重要なことで、僕のやり方だと、通時的にしかテクストを追えないということにもなりかねない。ただそれは聖書解釈においても問題であるはずで、例えばエックハルトの註解は、例えば1-4節まで解説して、4-10節まで解説した後に、もう一度1-12節までを論じて、といったふうに、進みながらもまた回帰したり反復したり、という形式であったと記憶している。こういうふうに、テクスト全体の構造把握と分割を最初にやりながらも、別の構造が見えてきたらそれに従って回帰や反復が行える方がいいかもしれない。
ということで、このような研究が学位をもらうための「博士論文」として受理されるのかな、というのが気になる。博士論文でこういうことをするというのは、最近ではあまり聞かないから。
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