2025/12/16

一本の論文として書いてみたのだが、書き進めていくうちに色々と破綻が見えてきて、いくつかのアイデアについては手応えがあるものの、方向転換を迫られることになった。ユダヤ人Bを不誠実原則とみなして、それを誠実原則Bとおいて…という操作が、いまいち正確に事態を掴んでいなかったように思われる。ユダヤ人AとBの間には、単に言語の使用規則のヴァリエーションの違いがあっただけである。だからそのヴァリエーションは他にいくらでも考えうる。そして、それだけでは我々は他者のことを嘘つきとみなすことはないのだ。言語の使用規則(コード)が少なからず異なる他者とすり合わせを行う際、何が起こっているのか。あるいは他者を嘘つきものと認定し固定してしまうパラノイア的精神においては、どのようなプロセスがあるのか。

たしかに、ユダヤ人Bが原則Bに従っていて常時嘘つきであるというよりは、ある知覚をどのように言葉にするかという言葉-意味規則が異なる人物が二人いて、その二人の間で問題になっているということですよね(その意味では原則はC, D, E…と無限に存在しうる。原則はユダヤ人Aの「一致原則」とユダヤ人Bの「反転原則」意外にも、一つずらすとか、色々別の規則は存在しうる)。二人のそれぞれは別に常時正直に振る舞う必要も、常時嘘つきに振る舞う必要もない。しかし、正直に振る舞うにしろ、嘘をつこうとするにしろ、そうするためには基準となる言葉-意味規則が存在しなければならない。それに従おうと意図すれば正直として振る舞うことになり、そこから逸脱して言明すれば(あるいはその規則の存在を利用して相手の裏をかけば)嘘をつくことができる。そう考えると、嘘をついて相手を騙したり、あるいは自分が相手に騙されたりするときには、私と相手の間に共通の規則があって、その共通の規則を支点にして正直に言葉を語ったり嘘をついたりすることができていなければならないですよね。まったく違う規則に従う相手との会話は、そもそも成り立たないので、騙し騙されることすらないわけです(例えば、日本人である私は日本語ではイラン人を騙すことはできないし、イラン人はペルシア語で私を騙すことはできない。仮にできるとしたら、私と彼が共通して理解できるボディランゲージとか、チェスなどのゲームなどのフィールド上に限られるでしょう)。

では、なぜユダヤ人機知では、二人のユダヤ人は言葉-意味規則が異なっているにも関わらず(それはつまり、誠実であるために必要な言葉の操作の規則が異なるということ)、ユダヤ人Bはユダヤ人Aに「騙された」と感じることができたのか。おそらくここに機知の所以があるのではないか?つまりユダヤ人Bが「騙された」と感じるためには、言い換えればユダヤ人Aのことを嘘つきだと思うためには、ユダヤ人Aもまたユダヤ人Bの規則に従っていると差し当たり思っている必要がある。ユダヤ人Bは、相手もまた「反転規則(正確には彼にとっては全く反転でもないのですが)」に従っていると思っていて、思ったことと口に出すことの関係が〈クラクフ〉と「レンベルク」になるだろうと予期している。自分の側の規則によってユダヤ人Aの言葉を理解しようとした結果、相手が嘘をついているように見えたわけです。逆の立場、つまり嘘をつく立場からすれば、最初から嘘つきだと判明してはいけない。嘘つきは一見仲間のように変装して相手の懐に入り込んで、そこから相手と同じ規則(コード)を共有していると思わせる。そして相手がそのコードに従った振る舞いをしてきたところの裏をかくわけです。

では、クオリア逆転の場合はなぜ会話が成立したのか。二人とも同じ規則に従っているということはまず言える。そして、互いが互いに対して、相手のクオリアがどうなっているのか、それが自分と同じクオリアであるのかどうかは確認できない。そもそもそれは確認できないのに通常の会話は成り立っているわけだから、言葉の運用の規則にはクオリアがどうであるかというのは無関係である可能性がある。ただし、その「言葉の運用の規則」というのはどういう規則かといえば、自分にありありと現れたクオリアをどのような言葉と結びつけるかという、言葉と意味の関係に関する規則であった。クオリアが存在するのはこの私においてのみであり、他者についてはクオリアがどのようなものであるかも、そもそもクオリアが存在するのかどうかも不可知である(クオリアが存在しないとしたら、その他者はいわゆる哲学的ゾンビである)。ユダヤ人機知の時との比較で言えば、二人とも自分自身の規則に対して誠実に振る舞っているという点はクオリア逆転もユダヤ人機知も同じであるが、ユダヤ人機知の時は二人の間で規則に違いがあったのに対して、クオリア逆転の例ではおそらく規則をも共有している。つまり、規則の共有ということにクオリアがどうであるか、あるいはクオリアが(他者に)あるかどうかということは、無関係であるということになるだろう。

だとしたら、「規則の共有」と「規則の違い」という分岐はどのようにして生じるのか、という問いが出てくる。さらにこれらのことが、嘘/真実の二項対立と「ヴェール」の問題、そしてパラノイアにおけるヴェールの欠如という問題とどう関わっているのかということもまた考え直さなければならない。

普通であればまず最初に自分のコードを相手も持っているだろうと投影的に仮定し、コミュニケーションをしてみようとする。そこから、少しずつずれを修正するという形でコードの共有を試みる。

しかしユダヤ人Bは、自分の持っているコードを相手も持っているはずだという仮定を手放さなかったので(ある意味、相手に他者性を認めなかった。自分を中心とした自分と相手の同質性に固執した)、そのことによって、相手は自分の世界観に従わない「嘘つき」とされた。パラノイアの意味作用においても似たようなことが起きている。そもそも言葉の意味とは、自己中心的に解釈されるものである。私は言葉を相手に話す時には、相手がどのように受け取るだろうかということ相手の立場に移入して考えて話すのであるが、その移入しているのはほかならぬ私であって、私がその言葉の意味を理解していることに変わりはない。同じように相手の言葉を聞くときももちろん、私は相手がどんな意図でその言葉を発しているかと移入的に推論していながらも、そう移入して推論しているのはほかならぬ私であって、私が意味理解の主導権を握っている。このように、意味理解は常に自己中心的であるということができる。そして、相手と自分との間の壁が感じられなくなると(つまり、相手が自分とは違う規則を持っているかもしれないという仮定が排除されてしまうと)、相手は私にとって、完全に私の妄想通りの振る舞いを行うか、あるいは私を騙すかの二者択一になってしまう?

また、パラノイアにおいては意味作用の主導権が自己にあるということから疎外されているようにも思われる。どういうことかというと、迫害妄想であれば相手が自分を迫害している、恋愛妄想ならば自分を愛している、嫉妬妄想ならば自分の恋人が異性(自分と同性)と関係を持っている等々と妄想する。その時、さっきの流れで言えば私は私の妄想的コードを相手にも適用した上でそれを手放さず、それゆえに相手が嘘つきに見える(なぜなら相手は本当は別のコードに従っているから)だけでなく、さらに相手がその妄想的コードの主導権であるようにも主体には映じるのだ。つまり、妄想的に理解しているのはほかならぬ「私」(パラノイア者)であるのだが、私はそのことに気づいておらず、むしろ迫害的意味や恋愛的意味を意図しているのは相手の方だ、と確信されるのである。ここまではユダヤ人機知の状況と同じである。ユダヤ人Bは、「クラクフ」という言明を〈レンベルク〉と意味理解したのほかならぬ彼自身であるにもかかわらず、そう理解させたのは相手(ユダヤ人A)だ!と意味作用の責任を転嫁している。
→この点については、大森荘蔵の「他人と言葉」の第V節が重要な関連を示している。大森は、他人の意識報告が私に理解されるのは、その報告が私にとっていかなる意味を持つかによってであると述べ、それに対して報告した本人は自分の意識状態から直接報告したつもりなのであるから、話し手と聞き手の間には会話が成立したとしても、非対称性があると論じた。そしてさらにこの第V節では、「他人の痛みの報告を私は単に痛みに関する振る舞いの一部としてしか理解しない云々」という、そこまで論じられてきたいわば「独我論的言明」ともいうべき発話が、他者にはどう受け取られ理解されるのだろうか、他者はそれに賛同するのだろうか、賛同するとはどういうことなのだろうか、と問うのだ。なぜなら、私が話す「独我論的言明」を本当に理解しているのは私だけなのだ。他人はその言明を私の意識そのものではなく、単に振る舞いの一部としてしか受け取らないのだから、私が理解している通りに理解したとは言えないはずだ。したがってそれに他人が「賛同」することなど、本来はあるはずもないのである。永井均は『独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか―哲学探究〈3〉』(2022)の補論として収録された「大森荘蔵の何が画期的でしかし私はその何に不満を感じたか」の中で、大森がこの第V節を論じたときに、私の立場における「私」と他人の立場における「私」の落差に勘づいていながらも、それをはっきりと取り出してくることをしていない、と半分批判する(永井自身がそれをはっきりと取り出してきたものが〈私〉である)。
→意味作用が自己中心的にしか行われないということは鏡像段階論的にも、つまり鏡に映る像を「私」だと認識する、というときにも同じようなことが起こっている。私は鏡に映る像を「私」であると認識するとき、光学的に考えれば、私は鏡の中の像に「移入」し、そこから現実世界の私を眺めて、これを「私」であると認識しているのである。ここに他者は介在しているともしていないとも言える。その像への移入が、本当は自己ではないものを自己だと思ってしまうという疎外として見るなら、他者は介在している。逆に、その移入は「他者への移入」としては成功しておらず(なぜなら移入しているのはほかならぬ「私」であるから)、「私」の想像的移入作用の閉じた系の中で展開された運動であると考えるなら、他者は介在していない。鏡像関係の構造と、言語の意味理解の構造は、このように同一の構造を持っているのだ(視覚的・光学的な構造と、言語の意味の構造が同じ動きをとることはそれ自体興味深い)。
→「独我論的言明」について言えば、私がそれを言明したときには、その意味を本当に理解しているの私だけである。他人がそれを「理解した」と賛同するときには、他人は私が理解しているようには理解しておらず、彼自身の独我論的言明として理解している。しかし、彼が彼自身の独我論的言明として理解しているだろうことは、私には理解されない。彼が私に独我論的言明を語ってきたときにも、私は私の独我論的言明、私が他人に独我論的言明を語る時のようにしか理解していないのである。
→私は、自分が話しているときにも自分の話を聴いている(他人が聴いているのだが、その他人にどのように聴こえているだろうかと移入するので、結局聴いているのは自分なのだ)、他人が話しているときにも自分がその話を話している。「話す口」や「聴く耳」は、私であったり他人であったりすることがあるだろう。しかし、「理解する意識」は、常に〈私〉しかいないのだ(意味作用の独我論的性格)。

このことに嘘/真実の二項対立と見かけ真実=ヴェールがどのように絡んでくるか。パラノイアにおいてはヴェールが欠如していると最初の論文では仮定したが、その仮定はなお正しいか?ヴェールが欠如していると、パラノイア者は自分の妄想的コードの中に相手を取り込んで、相手も妄想コードで話しているだろうと考える(しかし現実には違うので、妄想的世界とズレる「現実」の知覚をパラノイア者は「嘘」だと判定する)。ある意味でこの状態では、相手の言明はハナから「嘘」だと決めつけられるので、これは最初の論文に書いたとおり「見かけ真実」(嘘か真実かの不確定性)が機能していないと考えることができる。

では逆に、ヴェールが無い状態で相手は「真実」を言い続けているという固定はないのだろうか?これは最初の論文で論じたところである。つまり、「相手が真実を言い続けている」ということは「相手が見かけ真実を言い続けている」ということと区別ができず、その区別不可能性によってこそ「見かけ真実=ヴェール」は成立するのだ。だからヴェールが欠如している以上、パラノイア者の主体にとって他者が固定されるのは「嘘」だけとなるのだ。

このようにして、最初の論文の第三節で論じたように、ヴェールがある状態の他者との関係においては、私は相手が(基本的には)真実を語っていると思っている。ただ、それは今回の整理において出てきた「コード」の共有という点ではどのように記述されうるだろうか。パラノイアにおいては自分の妄想コードへの固執ということがあったのだが、正常な会話においてはその固執がない、ということはまず言える。相手の言っていることは常に嘘と固定されることはなく、基本的には真実(見かけ真実)として受け取られつつ、しかし本当のところでは、相手の言っていることが嘘か本当か分からない、ということが無意識的に成立している。

相手もまた自分と同じコードに従っているという仮定は、最初にまず賭けとして行われる。のだとしたら、パラノイアにおいても賭けは行われていることになる?そしてコード共有の可能性が破れた時点で、ヴェールが欠如しているパラノイアにおいては相手が嘘つきになったわけだが、ヴェールが存在するとなぜそうはならないのか?コード共有が破れても、だからと言って相手が私に嘘をついているということにならないためには、コミュニケーションにおける齟齬が、「コード共有の破れによるものだ」という認識が得られる必要があるだろう。コミュニケーションの齟齬には二つの可能性があり、①相手が私に嘘をついている場合か、②コード共有の破れがある場合かに分かれるのだが、ヴェールの欠如したパラノイアにおいては原因がすぐに①に回収されるのに対し、正常者においては②の可能性も保持されている。もちろん、正常者が嘘つきに騙される場合だって現に存在する。嘘つきの側があたかもコード共有の破れであるかのように装って、実は自覚的に嘘をついているパターンだって存在する。しかし、正常の会話においては、相手が嘘をついているという可能性は確かにあるとした上で、一旦その可能性は置いておいて、コード共有の破れという可能性をチェックするのである。だからこれは、「単にコード共有がうまく行っていなかっただけで相手は少なくとも彼自身のコードにおいては誠実に話していただろう」という仮定のもとに対処することに等しい。だからこれもまた、最初の論文で言ったとおり、相手に誠実さを付与すること、相手の言葉が「真実」であると差し当たりみなすことになるのではないか?

もちろん、それが裏切られて嘘をつかれていたことが発覚する場合もあるだろう。そしてそのことによって警戒心が生まれ、相手は嘘をついているのではないか?と疑い始めることもあるだろう。これは、病気ではないがたしかにパラノイア的状況であり、パラノイアックな精神状態に一時的に陥っていると考えることができる。

いずれにしても、パラノイアにおいては相手が嘘つきとして固定されるという状況が成立してあり、このことが彼の迫害図式として解釈されるという最初の主張は、保たれているように思われる。どうだろうか?

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