2025/12/10

前回(https://shanazawa.com/2025/12/08/2025-12-07/)の考察で、狂気(パラノイア)の成立条件として①原則Aと原則Bの交わり、②「ヴェール」の欠如という二つを提示した。その後色々考えて、「なぜパラノイアにおいては原則Aと原則Bの交わりという状況が生じるのか?」という問いに対して答えることができたように思われるので、書き残しておく。一通り考えたが途中で行き詰まり、ChatGPTにコメントを求めてみたら、「自分が原則A(正直者)で、かつ他者も原則Aになるためには、結局『ヴェール』が必要なのではないか?」という示唆を与えられた。このことは、それ自体として証明が必要であるけれども、重要な指摘であると感じ、これに対してさらに考えた結果、パラノイアの主観的状況である「自分は原則A、他者は原則B」(言い換えれば、自分は常に正直であるのに他人たちは自分に対して嘘をついてくる、迫害的世界観)は「ヴェールの欠如(成立条件②)」から必然的に帰結することがわかった・したがって、二つの成立条件のうち、①は②を前提にした時の帰結であったので、より根本的なのは「ヴェールの欠如」であることになる。

以下はGPTとのやりとり。

花澤:

あと、今考えているのはパラノイアにおける迫害妄想を「嘘vs真実」という問題から説明できないか、ということのさらなる拡張です。上の僕の議論では、狂気の成立条件に①世界Aと世界Bの交わり(つまり、原則Aと原則Bの交わりであり、また「ユダヤ人機知」におけるユダヤ人Aとユダヤ人Bの会話の状況でもある)、②「ヴェール」の欠如だと書きました。

それで、おそらくヴェールが欠如することによって「見かけ真実」が失われ、ということはつまりあらゆる言明は真実であるか嘘であるかのいずれかが常に確定してしまっている状態が訪れるのだと思うんですよね。それで今度は原則Aと原則Bの交わりということをなんとか導出したいのです。

途中経過がまだ繋げていないのですが、最終的な到達点はこうです。狂気(パラノイア)においては、その主体は自分のことを「正直者(原則A遵守者)」だと自認しており、対して他者のことを「嘘つき(原則B)」だと思っている。つまり、「自分は正直に話しているだけなのに相手が自分に嘘をつき続けている」という精神状態に陥る。これは、ヴェールの欠如した後で、自分のあらゆる言明は真実として固定され、他者のあらゆる言明は嘘として固定されているという状態です。全く不確定性のない状態。

しかしここで重要なのは、その「他者」は決して嘘をついているのではなく、正直に話しているだけだ、とも考えられるということです。なぜならすでに最初の議論で示したように、原則B遵守者は主観的には正直に振る舞っているだけだからです。したがってこうもいえます:「自認B」は不可能である。つまり、「私は嘘つきである」という自認は不可能である(嘘つきのパラドックス)。自認は常にA(正直者)なのです。

したがって、原則Aと原則Bという区別は常に主観的・相対的であり、自己Aと迫害的他者Bという構図を作り続けるのです。(ちなみにこの論文では立ち入りませんが、精神分析における「攻撃性」概念や、人類学的な共同体形成の議論にもつなげることができると思います。つまり、他者が自分を脅かしてくるとは、その他者が自分に嘘をついているということである、と。そして、そういう相手と同じ共同体を構成する「仲間」になることは、不可能ではないか?ということです。これを僕は「嘘つき仲間」の不可能性と呼びたいと思っています。つまり、「お前は嘘つきなんだが根はいい奴だから仲間だ」というのは、実は人間にとってあり得ないのではないか、ということです。)

ただしここからが悩んでいるところ。狂気の条件が「自分はA、他者はB」が常に成り立っている状況なのですが、そこになんらかの必然性を付与できるか、というところです。だって、「自認B」はあり得ないとしても、別に「自分はA、他者もA」でもいいじゃないか、と思うからです(実際に、我々が通常の会話をするときには、基本的には相手が嘘をついているかもということはいちいち考えないわけですから、基本的にお互い正直に話している体で会話しているわけです)。だから、もし「私が正直者(A)であるために、相手は嘘つき(B)でなければならない」という状況(その場合、「私が正直者だ!」「いや私こそ正直者だ!」という闘争が始まるでしょう)を、なんとか導出できないか、と考えているところです。

GPTの回答(要約)「他者もA(正直)にするためには、他者の内面が私と同様に 透明であることが必要になる。しかしそれは原理的に不可能。したがって唯一安定する配置が「自己A・他者B」の迫害的布置になるのでは?」←これだけでは説明にならないと思うのだが、参考にはなった。

花澤:

こう考えてみた。

「自認B(自己B)」が不可能である以上、ありうる可能性は①「自己A・他者A」か②「自己A・他者B」の2通り。ここでなんとか①の可能性を否定できれば、狂気に条件としての②を必然的なものとして導出できる。その糸口になるのは、「自己A・他者Aという可能性は、ヴェールによって支えられているのではないか?」である。

「見かけ真実」の次元(=ヴェール)とはなんなのだろうか。嘘vs真実という二項対立が、非二項対立的で一元論的な「見かけ真実」のヴェールによって覆われないといけない。とはいえ、「見かけ真実vs見かけ嘘」という二項対立は不可能であるとしても、「見かけ真実一元論」の代わりに「見かけ嘘一元論」も不可能なのだろうか?

不可能なのである(その理由は、「この言明は嘘である」の自己言及パラドックスになるから、とも説明できるが、そもそも「見かけ嘘一元論」は嘘vs真実二元論と同じ構造に収束してしまうからとも説明できるだろう)。このヴェール次元の一元論は必ず「真実」サイドの性質を帯びていなければならない。

このことが、「自己A・他者A」 とはいかなるものかについての説明を与える。この状態は、「ヴェールの忘却」でもある。つまり「自己A・他者A」は、「相手の言明は不確定(ヴェールあり)だが、それをいつも意識していては会話にならないので、とりあえず真実であることにしよう」という状態なのである。この「本当は不確定だがそのことは気にせずとりあえず真実(正直)と見なそう」ということが「仲間」としての社会構成を可能にする。このことによって初めて、「原則A」は自己だけでなく他者にも付与されうるのである。

だがこうも反論されるかもしれない。それは、「「自己A・他者A」の「他者A」は見かけ真実であるという主張だろうが、これが「見かけ真実」ではなく真相レベルの「真実」であると考えることもできるのではないか?」というものである。

実は、自己については真相レベル「真実(原則A)」を「見かけ真実」から区別することができるのだが、他者にについては「真相レベル真実」と「見かけ真実」の区別がつかない、という自他の非対称性ゆえに、「他者A」を見かけでない「真実」と判断することはできないのである。そして、この、「真相レベル真実」と「見かけ真実」の区別がつかないということこそが、「見かけ真実」を構成する本質的条件である。「見かけ真実」の「見かけ」性は意識されてはならない。我々が俯瞰的に(あるいは自己における区別可能性の観点から)見て「見かけ真実」と述べているだけであって、「見かけ真実」は「真実」にほかならないものとして現れてくる。そしてその「真実」は真相レベル真実という意味でなく、あくまでも「見かけ真実」としてでなければならないのである(ある種の循環がある。見かけ真実は「見かけ」であってはならないのだが、だからと言って真相レベル真実にはならないのである)。

このように考えれば、「自己A・他者A」は(特に「他者A」は)、見かけ真実のレベル、すなわち「ヴェール」のレベルでしか成立しない。しかし最初に狂気の条件として挙げておいたように、パラノイアにおいては「ヴェール」は欠如している。したがって、ヴェールが欠如している以上、ありうる選択肢は「自己A・他者B」のみである。

以上。

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