最近考えていることがいい感じに膨らんできているので、書いておく。
フロイトは『機知』(1905)の中で、彼が「懐疑的機知」と呼ぶ、興味深い小噺を紹介している。
二人のユダヤ人があるガリチア地方の駅の汽車の中で出会う。「どちらへ?」と一人が尋ねる。「クラクフまで」と答えが返ってくる。「おい、お前さんはなんて嘘つきなんだ」と先の男が腹を立てていう。「お前さんクラクフまでと言うとき、本当はレンベルクへ行くと私が思うように願っていたんだろう。ところがどうだ、お前さんは実際にクラクフへ行くじゃないか。なんでお前さんは嘘をつくんだ?」
補足しておくと、この汽車はクラクフとレンベルクという、二つの都市の間を往復する列車であり、この場面ではクラクフに向かっていたということである。つまり、一方のユダヤ人が正直に「クラクフへ向かっているよ」と答えたら、もう一方のユダヤ人(こいつが変なヤツなのだ)に因縁をつけられ、嘘つき扱いされてしまったわけである。
「クラクフまで」と正直に答えたユダヤ人は、真実を言うときに嘘をつき、嘘をつくと真実を言うことになる。フロイトはこれに対し、「この機知のより真剣な内容は、真理の諸条件への問いである」と述べる。
さて。ここでは何が起こっているのだろうか。ためしに、構造的に似ているように見えるが、結論の異なる別のケースと比較してみよう。
二人のユダヤ人(A, B)が、同じ赤い壁を見ている。しかし二人の間ではクオリアが逆転しており、ユダヤ人Aは我々(読者)と同じ赤のクオリアを表象し、ユダヤ人Bの方は、我々(ユダヤ人Aおよび読者)にとっては青である色を表象しているとする。よくある、自分の見ているクオリアと他人の見ているクオリアが本当に同一であるかどうかは究極的には不可知である、という話である。もし我々が、今の自分のクオリアを覚えていながら一時的にユダヤ人Bの心に憑依したら、この壁は青く見えてびっくりするのかもしれない(今はごく素朴にこう言ったが、この仮想は多くの困難を含んでいるので注意。だが今回は立ち入らない)。
ユダヤ人AとBの表象しているクオリアは逆転しているが、二人の会話は難なく成立するだろう。Aは〈赤だなあ…〉とクオリアを表象しながら「この壁は赤いね」と語り、Bもまた〈赤だなあ…〉とクオリアを表象しながら「うん、赤いね」と答えるからだ。Bは生まれた時から、我々にとっては「青」と名づけるところのこの壁の色を「赤」と呼んで生きてきたので、彼にとってはこの壁はたしかに「赤」色の壁なのだ。
汽車での会話の例と、いま見たクオリア逆転の例は、いずれも心の中の観念と、それを言葉として口に出すときの言明という二つのレベルを想定し、観念内容において二人が逆転しているという状況設定をするという点で共通している。
汽車内会話の例についてもう少し詳しく述べておく。正直に話すユダヤ人Aは、〈この汽車はクラクフに向かっているなあ…〉と思いながら「クラクフまで」と答えたのだが、邪推ばかりするユダヤ人Bにとっては、「クラクフまで」という言明内容がの観念レベルに移行する時、その意味が「レンベルクまで」に逆転してしまっている。言明内容のレベルではAもBも「クラクフまで」という言明を話し、聴取しているのだが、心の中の観念内容のレベルではAは「クラクフ」と思い、Bは「レンベルク」と思っているのである。その結果、Aは心で思っていることと同じことを正直に言葉にしただけなのに、二人の観念内容のレベルで逆転が起きてしまい、AがBを「騙した」ことになってしまったのだ。なぜなら、他人を騙すために必要なのは、観念内容のレベルで自分と相手に不一致を作るという作業だからである。例えばじゃんけんで相手に勝ちたい場合、私は「チョキを出すよ」とあらかじめ相手に言っておく。もしその相手がものすごく素朴な人物であると仮定すると、相手は私が心の中で「よーし、チョキを出すぞ」と思っているだろうと考える(それゆえ相手自身は「グーを出して勝つぞ!」と考える)ので、私は相手の心の中での私の出し手とは別の出し手を考えておき(この時点で私の心の中は「パー」になっているので、観念内容のレベルで不一致を作ることができた)、実際には「パー」を出すことによって、相手の「グー」に勝てるのである。もちろん、実際の勝負では互いにこういったことをやりあうので、事態は循環に陥り、最後にはこうした相手への「移入」による推論を諦めて、一か八かの賭けに出るしかなくなるだろう。
第一の例(汽車内会話の例)も第二の例(クオリア逆転の例)も、二人の人間の間に観念レベルでの違いがあり、第一の例ではそれが元で一方が他方にとって自動的に嘘つきになってしまったのに対し、第二の例では会話が難なく成立した。なぜこのような違いが生じたのだろうか。
こう考えてみよう。AB二人の間でクオリア逆転がある場合は、両者とも「誠実原則」に従っている。これに対してユダヤ人機知の場合、一方(A)が誠実原則に従っているのに対して、Bはいわば「不誠実原則」に従っている。
ここでいう「誠実原則」とは、正直者が遵守している原則であり、観念レベルで思っていることと、言明レベルで実際に口に出すことの内容を一致させることである。第二の例では、Aは〈赤だなあ…〉と心で思いながら「この壁は赤い」と実際に口に出す。Bもまた、彼にとってこの壁の色は赤色なので、〈赤だなあ…〉と思いながら「この壁は赤い」と口に出していることになる。二人は正直に話すという「誠実原則」に従っており、観念レベルでの〈赤い〉という内容が一致するから、会話が成立するのである。他方これに対して第一の例では、ユダヤ人Aの方は〈クラクフに向かっているなあ…〉と思いながら「クラクフまで」と口に出しているので、観念レベルと言明レベルの内容が一致しているのだが、ユダヤ人Bは「クラクフまで」という言明をなぜか逆転した「レンベルク」と解釈し、二つのレベルの内容が不一致になってしまったのである。もし彼が話す側に回ったとしても、彼は〈クラクフに向かっているなあ…〉と思いながら実際には「レンベルクまで」と言うだろう。観念レベルと言明レベルの内容が常に逆転しているユダヤ人Bは、ひとまず「不誠実原則」に従っている、ということができる。
だが、「不誠実原則」とはそもそもヘンだ。不誠実とはここでは嘘つきということであるが、ユダヤ人Bは必ずしも嘘をついているとは言えないからだ。もし我々が彼の「不誠実原則」を見抜き、コイツはいつも観念と言明を反対にする奴だなと理解したなら、ちょっと面倒くさいが彼とのコミュニケーションは不可能ではないだろう。彼は「いつも」「真面目に」不誠実原則に従い、観念と言明を反対にしてコミュニケーションを行うので、むしろ正直者であるとさえ言えるのだ。不誠実であることに誠実だ、と言い換えても良い。
実際、不誠実原則を遵守するユダヤ人Bのような人間が二人いて、彼らが会話すると想定すると、コミュニケーションは成り立つ。ユダヤ人B1とB2がクラクフ行きの汽車の中で出くわし、B1が〈クラクフに向かっているなあ…〉と思いながら不誠実原則に従って「レンベルクまで」と言明する。B2はそれを聴取し、逆転した〈クラクフまで〉という意味として心の中で理解するので、観念レベルにおいて二人の間に一致が成立する。会話をする二人が両方とも不誠実原則に従っていれば、逆転を二回経由することによって、お互いを正直者と認め合うようなコミュニケーションが成立するのである。
誠実原則者同士でも、不誠実原則者同士でも、会話は成立する。なぜなら不誠実原則もまた一つの誠実原則だからだ。しかし、前者の誠実原則の遵守者と後者の誠実原則の遵守者の間の会話は成立しない。したがって、この二つの誠実原則をそれぞれ、誠実原則Aと誠実原則Bと読んで区別しよう。誠実原則A同士、誠実原則B同士では会話が成立するが、誠実原則Aの人物と誠実原則Bの人物が交流するときにのみ、「懐疑的機知」に見られたようなパラドクシカルな状況になるということである。
どちらも誠実原則なのだが、AとBの間には互いが不誠実に見えるような関係があるのだ。まるで二つの世界があって、それぞれの内部では問題が生じないが、互いが交わる時にだけパラドックスが生じるかのような。この比喩で言えば、ユダヤ人は世界Bの住人で、たまたま我々の住む世界Aに迷い込んできてしまった遭難者なのである。逆に、世界Aに住む我々が世界Bに迷い込み、そこの住人と会話しようとすれば、会う人全員にユダヤ人Bのような反応をされるだろう。つまり、こっちは正直に話しているだけなのに、嘘つき扱いされるだろう。
ここまでで一度一区切り。我々は以上のことから、心に思っていることと口に出して言葉にすることという二つのレベルに区別し、その一致を作り続ける誠実原則Aと、その不一致を作り続ける誠実原則Bという、どちらも誠実(正直)なのだが決して噛み合わない二つの原則を見出し、それが二つの世界A、Bというレベルにまで拡張できる可能性を提示した。おそらく、この世界はC, D, E…と増やしていくことはできないだろう。なぜならこの二つは「嘘vs真実」という二項対立の両極に対応しており、のちに示すように、この二項対立の成立に必要な「ヴェール」の欠如がもたらす可能性は、この二つしかないからである。
次に考えたいのは「狂気」の問題である。
パラノイアの妄想は、迫害妄想、嫉妬妄想、恋愛妄想、誇大妄想等々いくつか類型があるのだが、大きな共通点は「不信」、つまり相手の言っていることや示そうとしていることが信じられなくなるということである。例えば嫉妬妄想の患者は、恋人が自分への誠実さを必死で示そうとしても、自分の恋人が他の異性と関係を持っているのではないかという妄想信念に囚われ、恋人の言葉を信じることができない。迫害妄想では、妄想体系の中で迫害者の位置をあてがわれた人物はあらゆる言動がその意味作用に回収され、患者は例えばその人物が友好的な態度を示してきても、自分を騙して付け入る隙を作ろうとしているのではないか、などと邪推する。
邪推する、と書いて気づくかもしれないが、「懐疑的機知」に登場したユダヤ人B、相手の言葉を常に逆の意味に受け取る邪推魔であり、世界Bから我々の世界Aに迷い込んできたこの「嘘つきの民」は、世界Aのあらゆる人間が嘘つきに見えてしまう「狂気」に犯された人物だと考えることができる。
狂人は、ユダヤ人Bがユダヤ人Aを嘘つきとして糾弾したように、周囲の人間たちが嘘をついて自分を騙しているように感じる。だが周囲の人物は正直なことを言っているだけで、嘘つきに見えるような受け取り方をしているのはほかでもなくこの狂人自身なのである。しかし、「他人が常に嘘をついていると思う」、あるいは「他人は嘘をついているに決まっている」という狂人の主観的確信は矛盾している。それはすでに上で見た、「不誠実原則=誠実原則」と同じである。他人が毎度毎度真面目に嘘をついている(観念と言明を反対にする)ならば、その他人はむしろ誠実である(もう一方の世界の住人である)。狂人は自分だけが正直者で、周囲の他人たち全員が自分を騙そうとする嘘つきであると考えるが、その妄想的確信はある意味で正しいのである。この狂人と周囲の人間たちとを俯瞰して見れば、誰も相手を騙そうとしている人間はいない。そこにあるのは二つの対立する主観であり、一方の側に立てば相手のことが嘘つき(不誠実)に見えるという相対的関係である。したがって、「狂気」とは二つの世界A、Bの交わりによって生じる。
二つの世界A、Bの交わりは、例えば世界Aの住人と世界Bの住人とが、世界Aにも世界Bにも属さないニュートラルな空間で会話する、とか、あるいは両方の世界の住人たちが一斉にニュートラル空間でがやがや話し合う、とかいう仕方では考えにくいように思われる。つまり、二つの世界の交わりは、常に、一方の世界の住人1人が他方の世界に迷い込む、という遭難スタイルしかあり得ないのではないだろうか。もしそうだとすれば、二つの世界の交わりは常に力の不均衡をもたらし、「1人の遭難者vs世界全体」という構図を作り出すだろう。アブラハムは「ヒステリーと早発性痴呆の心理-性的差異」(1908)において、「Der Kranke, der seine Libido von den Objekten abkehrt, setzt sich damit in einen Gegensatz zur Welt. Er allein steht nun einer Welt, die ihm feindselig ist, gegenüber. 患者は、自らのリビドーを対象から引き離すことによって、世界と対立する立場に身を置くことになる。彼は今や、自分に敵意を向ける世界と、ただひとり向き合っている」(PS2, 141)と述べている。パラノイアあるいは早発性痴呆では対象から自我へのリビドー撤収が行われ、そのことが「自己vs敵対する世界」という迫害的構図を生み出すという精神分析の洞察は、以上のように解釈できるのではないだろうか。
さて、毎回本当のことをいう人が正直者で、毎回嘘を言う人もまた正直者(誠実原則B)であるとしたら、語の本当の意味での嘘をつく人というのは何をしているのだろうか。このことを考えてみよう。
嘘をつくためには、それが嘘であると知られてはならない。嘘は、自分を真実であると偽って、真実に変装し、真実たちの中に紛れ込む。言明される全ての言葉は「真実のみかけ」を帯びており、その中に「本当に真実」であるものと、「本当は嘘」であるものが存在するのである。つまり、真相のレベルでは嘘vs真実という二項対立があり、嘘が対立先の真実に変装することで「非二項対立」化し、一見すると真実しか存在しないようにみえる言明レベルを開いている。重要なのは、この二つのレベルがそれぞれ独立しては存在し得ないということである。原初に存在する嘘vs真実という二項対立は、それが存在するためには言明レベル(嘘が真実に転化することで開かれる見かけ上の真実だけ平面)によって覆い隠されなければならない。そうでなければ嘘vs真実という対立はそもそも存在しなくなってしまうからである(いわば、全てが露わになって、「嘘」は生きていられなくなってしまう)。
嘘vs真実の二項対立を覆い隠すこの言明レベルを「ヴェール」と呼ぼう。すると、この「ヴェール」を構成する「見かけ真実」を二項対立レベル(真相レベル)での「真実」と区別するならば、嘘vs真実という構造を構成するのは「嘘」、「真実」、「見かけ真実」の三項となり、真に必要なのは三項関係であったことが分かる。
ここまでに述べたことから明らかであるが、「見かけ真実=ヴェール」のレベルにおいては「嘘」は不可能である。つまり、「見かけ嘘」は不可能である。なぜなら、「嘘」と言明してしまえば、それが真相において嘘なのであるか真実なのであるか(真相において真実であったならば、「嘘」という言明は真実であったことになる)、その不確定性がすぐさま立ち現れてしまうからである。つまり「見かけ嘘」という試みは「ヴェール」を貫通しようとする試みなのである。当たり前だが、まったく同様に、「ヴェール」次元での「真実」(「見かけ真実」ではない「真実」)もまた不可能である。このことは「この言明は真実である(嘘である)」という自己言及文のパラドックスとして扱われる問題である。そう語ったとしても、「ヴェール」の上で上演されている言明であるという限界の外には出られない。この次元では嘘vs真実という二項対立は決して成立し得ないのである。
「ヴェール」次元では二項対立が成立しない。だがしかし他面では、「真相レベルでの二項対立」と「ヴェール上での非二項対立」という二項対立、は必ず保存されている。嘘vs真実という二項対立を「廃棄aufheben」すると同時に、「真相レベルでの二項対立」vs「ヴェール上での非二項対立」という新たな二項対立を「保存aufheben」している。いまわたしは、嘘vs真実の二項対立が「見かけ真実」のヴェールに覆われるところまで遂行して初めて遡及的に完成する、というこの構造と同じことを別の言い方で述べたのだ。
したがって、嘘をつくためにはこの「ヴェール」が必要なのだ。「見かけ真実」である言明は真相レベルでの「嘘」と「真実」のいずれかに接続しているのであるが、どちらに接続しているかは分からない。「嘘」に接続していればこの言明は偽であり、「真実」に接続していれば真になる。そして「ヴェール」の機能は、この接続がどちらにあるかという二者択一に不確定性を付与することにあるのである。簡単で当たり前な表現に言い直せば、嘘をつくためには、語った言葉が嘘か本当かが分からない、という条件が存在しなければならない、ということである。
「嘘」というものの成立条件を「狂気」に適用して考えてみよう。誠実原則Aは観念レベルと言明レベルが常に一致、誠実原則Bでは観念レベルと言明レベルが常に不一致であった。つまり、誠実原則Aでは見かけ真実は常に「真実」に接続しており、かつそのことが露わになっている。また誠実原則Bでは見かけ真実は常に「嘘」に接続しており、かつそのことが露わになっている。すなわち、誠実性原則AもBも「ヴェール」を欠いており、ゆえに(その語義から言って当然ではあるが)「嘘」の可能性を欠いているのである。また、まえに少し触れたように、世界がAとBの二つしか存在しないことも、「見かけ真実」の接続先が「嘘」と「真実」の二通りしかないことから説明される。
以上のことから、「狂気」の成立条件は次の二つである。
①世界Aと世界Bの交わり
②「ヴェール」の欠如
狂気の成立条件がこの二つ以外にもあるのかどうか、また①と②のそれぞれがまたほかにいかなる意味を持っているのか、①と②の関係はどのようになっているのかということについて、この後も研究する必要がある。
関連する議論として、精神分析における「投影Projektion」の問題、「自我」、「超自我」および外界成立の問題、「抑圧」と「排除」の違いに関するラカンの議論、ナレーター問題と自由意志(ランダム予言破り)の問題、鏡像段階論などがこの問題のさらなる究明に役立つ気がするので、その辺りを考えていきたい。
コメントを残す