2025/10/11

自分がどうやって自分なりの理論、自分なりの視点、自分なりの帰結、自分なりの行動を作っていけばいいのかを考えている。ある決定的な視点というのを掴めれば、そこからいろんな広がりや接続があるのだと思う。メルロ=ポンティによればセザンヌは、自然そのもの、もっと言えば自然から人間が遊離するその瞬間を描こうとした。それは配置そのもの。配置があれば、そこからどんなものでも浮かび上がってくる。これがラカンのいう「ものla chose」であって、そこからさまざまな解釈が引き出されてくる源泉になってくるものだと思う。つまりそれは、ゲームの初期条件だ。構成要素があり、それらがある「偶然的な」仕方で配置されている。その配置は、ある推移を可能にし、別の推移を不可能にする(法則による拘束)。つまり「もの」を作り出すことは、ゲームを開始することだ。そこにさまざまなプレイヤーが参与し、それぞれの戦術を発見していく。

僕は今までラカンの読解に集中してきたが、本当にそれだけでいいのか疑問に思ってきた。ラカンの修辞の裏にある強固な理論を明らかにしていくことは自分自身にとって今後も必要な作業だ。しかし、重要なのは、どこかで自分の視点を見つけ、ゲームを開始することではないか。自分はどんなゲームを開始できるのか、その最初のきっかけとなる視点はどこにあるのか。

これは難しい問題だと度々思ってきた。つまりほんとんどのパターンでは、ある極めてユニークな思想家が誕生し、その解釈者として次にまたユニークな思想家が誕生するという、一段階二段階という順序を踏むからだ。そこに、三段階目はつけ加わらないことの方が多い。フロイトからのラカン、ユダヤからのキリスト、法然からの空海など。もちろん、一段階目の人々も、その前の歴史の中から誕生している。とはいえ、思想史の中では、最初の人物というのは決定的なのだ。

自分がやっているのはラカンの研究。それは「三人目」の問題に突き当たる。一言で言えば、ラカンの研究はゲームを開始できないのではないか。フロイトは開始した。ラカンはフロイトの解釈者として開始した。

ラカンに影響を受けた僕の興味ある思想家に、ミシェル・ド・セルトーやピエール・ルジャンドルがいる。彼らがどのように練り上げていったのかは知りたい。ただ彼らは分野が結構違うので、「ラカン思想の異分野への適用」というやり方になっている。ジャック=アラン・ミレールにはあまり興味がない。ラカン研究にもあまり興味がない。真正面の「ラカン研究」は事実として、現在、偉大な思想家を生み出していない。そのことを考え始めてから、自分のやり方を見直したくなった。

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