約10日間のフランス語集中レッスンが昨日終了。今日は一日部屋で本を読んでいた。外で活動すると何かとお金がかかるから。気温ががくっと下がった。近所のMONOPRIX に行ったら突然花粉症のようなアレルギー症状が出た。パリの街中でも時々ある気がする。
渡仏する前にDELF B2の資格は取得していたのだが、結局クラス分けとしてはB1-B2レベルと判定されてそこで授業を受けた。確かに、難しすぎず簡単すぎず、ちょうど良いレベルの内容になっていたと思う。周りの生徒たちの積極性も、自分のモチベーションを保つのにつながった。日本人以外の留学生たちはほぼ全員英語ができる、しかもそれを使って会話を楽しめるレベルには英語ができるようだ(会話ができるということと、会話を楽しめるというのの間には隔たりがあるように思う)。多分、それだからか、皆文法知識はB1レベルなのに、先生のフランス語を難なく聞き取っている(先生がジョークを言うとちゃんと笑っている。僕はぽかんとしながら何が面白いのか頑張って理解しようとしている)。そうかと思えば、聴き取り訓練でYoutubeの動画を見たりする段になると、必ずしも皆が完璧に聴き取れるわけでもないようで、そのねじれは何なのかと思う。韓国出身の壮年女性とペアになって仏語会話をした時だけ、話し方や発音、仏語の「やりづらさ」が日本人の自分と似ていると感じた。おそらく、日本と韓国の文法構造が似ていることに由来するのだと思う。インド=ヨーロッパ圏の言語話者は、もう少しフランス語に馴染みやすいのではないか。
言語の壁は大きい。多分、話せないことよりも聞き取れないことの方が影響が大きいのではないだろうか。長めのスピーチなら流れに乗ったり、乗り直したりすることで大概を把握することができるが、ちょっとした日常会話やいきなり話しかけられた時の、じょぼじょぼとした音声は、まるで何を言っているのか分からない。買い物はかろうじて「carte」とか「sac」といった単語に反応することができるが、それでも全体として復唱しろと言われたらできないのだから、まだまだだと思う。
何かのマンガのキャラクターなどで、言葉を話せない登場人物がいたりする。それでも大抵の場合、周りの人々が話すことの内容は十全に理解し、反応している。もし話せないだけでなく、全く聞き取ることもできないとしたらどうだろうか。ましてやフランス人の多くは(少なくとも今日までに僕が出会ったフランス人の多くは)、相手の言語能力などお構いなしなのだから、さらに困難は多い。「お構いなし」すなわち「お前がどういう状況だろうが、私には関係ない」なのである。
ある意味で、日本よりもずっと自己責任の国である。ごく簡単な想定として、道端で倒れている人がいたら、まず助ける人はいない(のではないか)。それは日本でも同じだとして、人々の反応がそもそも違うと思う。日本人は、「でも〜で…、〜だから…」と言い訳するとすれば、フランス人は「だって私には関係ないから」となる。シンプルだが、きわめて強力で冷たい論理だ。
ラカンの博論『人格との関係におけるパラノイア性精神病』を中古で買って、これを丁寧に読んでいる。ラカンの参照文献が大量なので、これを逐一図書館でチェックしながら読む。今までは飛ばし読み、つまみ読みしかしていなかったのだが、こうして最初のページから通読していると、他の精神医学や科学的心理学とラカンの立場との違いがわかってくる。「人格」を定義するキーワードは「統合synthèse」、「意図性intentionnalité」、「責任responsabilité」であり、また別の表現(すなわち人格の「客観的」分析が採用する観点)では「発展développement」、「自我の理想イメージimage idéal du moi」、「社会関係の緊張tension des relations sociales」である。この三つの軸で「人格(性)personnalité」を定義し、そこから「病因」、「症状」、「治療」の定義が画定されてくる。
人格の発展という発想、自我の理想イメージという発想は、すでに精神分析の十八番である。社会関係つまり他者との関係によって人格の一契機となっているのが「責任性responsabilité」であるが、これもフロイトが「罪悪感」とか「良心」の問題として考えたところに一致する。ラカンはこうして本書の最初の方で、我々はこういう見方をするよ、ということを提示しているのだが、その見方が精神分析の見方であるとか、フロイトの立場であるということはまだ明言していない。注の中で幾度かフロイトの名前が挙げられているが、他の研究者への肯定的言及と並行しているにすぎない。
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