「すでに見たdéjà vu」、あるいは「すでに話したdéjà raconté」
フロイトは「精神分析治療中における誤った再認識(『すでに話した』)について」(1914、フロイト著作集9所収)について「すでに見たdéjà vu」(既視感、デジャヴュ)現象について論じている。そのきっかけは、分析経験の中でしばしば患者が思い出した事実を報告するのに「これはもう先生にお話ししたことですが」という断りをすることである。
このような記憶の誤り(もちろん、本当にすでに話した事柄で、分析家の方が忘れている場合もあるが。)に対してまず考えられることとしてフロイトは次のように述べる。
「たしかに彼は、その話を報告しようという意図をすでに抱いたことがあった。そして分析医の前で実際に報告する以前に、自分の心の中だけで一度、あるいは幾度か喋ってみたものであるが、そのうちに抵抗が起こって、その意図の実行が阻止されてしまい、その結果自分の心の中だけで抱かれたそのような意図の記憶が、それを実現したという記憶と混同されてしまったわけである」(フロイト著作集9、109頁)
ただ、事情はこれだけにとどまらない。なぜなら、この「すでに話した」現象が関わる患者の記憶というのは、しばしば分析にとって非常に価値のある記憶であるからである。さらに進んで深く考えなければならない。
「すでに話した」現象は、これまでに多く論じられてきたいわゆる「すでに見たdéjà vu」現象によく似ている。フロイトによれば、デジャヴュ現象の説明には大きく二種類の見解がある。
① 「この現象の中に含まれている感情の方を信じて、確かにそれは実際何事かを思い出している場合なのだ、とこの現象を認めようとする考え方」(109頁)。とりあえず、患者の証言を認めてみて、それでは何が想い出されているのかと考える立場。
② 患者の記憶の誤りとみなす立場。そこから、なぜそのような錯誤が生じたのかを解明しようとする。
フロイトの論調は、どちらかというと①寄りである。彼はグラッセという学者の説明を紹介している。グラッセによると、患者はたしかにかつて何らかについての無意識的な知覚をしたのであるが、これは無意識のままになっていた。そこに、ある新しい、そして以前のそれと類似した印象の影響がやってくることによって、この無意識の知覚が喚起されるというのである。つまり、「無意識的な印象の再生」説である。
ある婦人患者の同様な事例について、フロイト自身が報告している。彼女は当時12歳の子供であったが、ある家庭を訪ねたとき、その家には重病にかかり瀕死の状態にある男の子がいた。ところが彼女自身の兄弟も数ヶ月前、同じような危険状態にあった。
「このような共通点がある一方で、数ヶ月前の体験の場合には意識化され得なかった一つの空想——その兄弟が死んでしまったらいいのにという願望——が結び付けられていた。そのために、この二つの場合の類似性は意識されなかった。むしろその類似しているという感じは、彼女の意識面ではすでに体験したことがあるという現象に置き換えられ、二つの状況に共通した無意識的な感情上の同一性は(抑圧され)移動されて場面の類似だけが(同一経験の反復という形で)意識されたのである。」(110-111頁)
彼女が一定の時間を置いて経験した二つの状況、すなわちまずA. 自分の兄弟の危険状況、次いでB. 訪ねた家の男の子の危険状況がある。そして彼女にとって、AとBの「類似」は意識されてはならない。なぜならそれが意識された場合、兄弟の死を願う願望もまた意識されてしまうからである。したがってこの類似の意識は「すでに体験したことがある」という意識=現象へ置き換えられた。つまり、デジャヴュは無意識的思考の抑圧に貢献しているのである。
次にフロイトは、「狼男」症例の有名なエピソードを再び持ってきている。
「ある患者が自由連想法を行っている間に、『私はそのとき五歳で、庭でナイフを持って遊んでいましたが、そのとき小指を切りました、——いや、小指が切られたと私が思っただけだったのかもしれませんが———でも、これはもう先生にお話ししましたね』と言ったことがある。」(111頁)
この話は、そこに「すでに話した=すでに見た」現象だけでなく、「幻覚」という主題も含まれているだけに範例的である。(「幻覚」についての記憶であり、しかも「すでに語った」ことがあるように感じる記憶である、という点で複雑な階層性を持っている)
この話は「去勢不安の存在を証拠だているような話」(112頁)である。「小指」はペニスの等価物であり、これが切断されることは去勢を象徴している。「ナイフ」は去勢の脅威を代表しているとも言えるだろう。この後のフロイトの記述はそっけなく、不親切である。まず前提として、狼男は上に引用した決定的記憶を語る以前に繰り返し、「ナイフ」に関する些細な思い出を連想し、話していた。フロイトによればこの些細な思い出は、決定的記憶に関する「隠蔽記憶Deckerinnerung」として機能している。そして、
「この患者の幻想の内容について私は、そのような幻覚的な錯誤が去勢コンプレックスの組織の中に、決して孤立的に存在しているというわけではなく、むしろこの錯誤の理解が、望ましくない(正確な知覚が苦痛な)知覚の訂正に役立つものであるという所見を述べておく。(112頁)」
先ほどの婦人患者の例では、二つの時間的に隔たった二つの出来事の「類似」意識が、「すでに見た」意識へと置き換えられ、望ましくない思考の自覚が回避されているのであった。狼男の例ではどうか。今回は「すでに見た」というよりも、「すでに話した」という感覚である。おそらく、ここで比較されている二つの事項は、ナイフに関する些細な思い出(C)と、小指を切り落としたという決定的記憶(D)であろうと思われる。そして決定的記憶と話した際の「すでに話したdéjà raconté」の感覚は、婦人患者の例と同じく都合の悪い無意識的要素(狼男の場合は「去勢」)の抑圧に役立っている。つまり患者は、たしかにCを以前から話すことによってDを先取りしていたのであるが、CとDの類似が意識されることは不都合なので、その類似性が置き換えられ、Dを話したときの「すでに話した」感覚が生じた、ということになるだろうか。(しかしその場合、CとDが類似していることは狼男にとって不都合であろうか?不都合なのはCがさらにそのコピーであるところの原型、すなわち原初的場面としての「去勢」ではないだろうか)
次にもう一例紹介されているが、これは割愛する。フロイトは最後にこう述べる。
「また、これとは別種の『誤った再認識』が一つの分析操作を終了する際に現れて、治療者を満足させることも稀ではない。現実的な性質のものにせよ、心理的な性質のものにせよ、抑圧されていた出来事が、ありとあらゆる抵抗を受けたにもかかわらず意識によって承認され、いわばその本来の存在権を回復するのに成功した後で、患者は次のように話すことがある。『今、私はそれを今までいつも意識していたのだという感じがします』と。これで分析の課題は解決されたのである。」(113-114頁)
どう解決されたのか。どうやらフロイトは、「すでに話した」という「誤った再認識」が、分析を終了(ということはつまり成功)へ導くことになると考えているらしい。「ありとあらゆる抵抗を受けたにもかかわらず意識によって承認され」とはどういうことか?「誤った再認識」が、不都合な要素の知覚の回避として機能していることはすでに見た。これは抵抗の働きとみなすことができるだろうが、しかしそれにもかかわらず「意識によって承認」されたとは、どういうことか。
次に、ラカンにおける「すでに見たdéjà vu」解釈を見てみよう。彼が最初に取り上げるのはセミネール1巻である(邦訳上巻98頁)。
ラカンは「幻覚」現象をとりあげようと言って、フロイトも例示していた「狼男」の例を挙げる。ラカンによれば、狼男は「去勢」をただ抑圧しているどころか、それに対する「是認Bejahnung」がそもそも起こっていない(そのことが、「否定」から区別されるところの「排除」である)。「彼には性器期的平面の『是認』すなわち実現化がありませんでした」(S1下巻、97頁)。つまり去勢コンプレックスを引き受けて性器期へ至るということが、狼男においてはまったく存在していなかった。
そして、「彼にとってまさしく実在しなかった去勢は、彼が想像するものという形をとって現れてきます」。これはのちに、象徴界から排除されたものが現実界に再出現する、と定式化される。ある意味でラカンはすでにセミネール1巻の時点で、その後3巻で展開されるような「排除」の論理の大概をすでに持っている。狼男が「切断されかろうじて皮一枚で繋がっている小指」というイマージュで幻覚を体験したその瞬間、彼はなんともいえない感覚に包まれ、周りの人にそのことを話すことができなかった。これは言い換えれば、「そこにはもはや他者は居ない」のである。大文字の他者の排除による想像界への捉われ、というシュレーバー的主題もまたすでにここにある。
しかし、「この患者は精神病では全くありません」(S1上巻98頁)。狼男は幻覚を見たが、それだけでは精神病とは言えない。だが幻覚が精神病的な一現象であることは確かである。おそらく、患者がこの幻覚を中心にして独自の妄想体系を作り、世界との関わりを独自・内閉的に構築してしまえば、精神病となるだろう。
こうして次にデジャヴュの話がくる。幻覚において起こっていることは、「再認されていないものが見られたものという形をとって意識の中へ忽然と現れるということ」である。
「もしこの得意な分極を深く掘り下げるなら、デジャヴュと呼ばれる曖昧な現象はずっと容易に理解できることがお分かりでしょう。それは再認されたものと見られたものというこの二つの関係様式の間に位置しているのです。デジャヴュにおいては、外的世界の何ものかがある極限にまで至り、特別な前-意味〔プレ・シニフィカシオン〕を伴って現れてきます。以前へと遡る錯覚が、初めてのものであるはずの知覚をデジャヴュという領野へと移すのです。外的世界の探究においては過去にすでに知覚されたものへの暗黙の参照が行われている、とフロイトはいっていますが、それはまさにこのことに他なりません。このことは無限に当てはまってきます。つまりある意味では、あらゆる種類の知覚は必ず以前のある知覚に依拠しています。」(S1上巻、98頁)
「見られたものle vu」とは想像的なものとして、イマージュとして経験されたものであり、現在の知覚である。これに対して「再認されたものle reconnu/されていないもの」は、かつて「是認」を受け象徴界に位置を持っているもの、以前の知覚である。幻覚ではそれゆえ、かつて是認を受けなかった「再認されていないもの」がイマージュとして、つまり「見られたもの」として出現するということが起きている。では、「デジャヴュ」ではどうか。「デジャヴュ」はまずもって、今げんに「見られたもの」である。そしてそれが、初めて見るにもかかわらず過去にすでに知覚されたものとして体験されている。
こう考えてみるのはどうだろう。まず、幻覚は「再認されていないものが見られたものという形をとって現れたもの」である。これに対してデジャヴュは「再認されたが無意識に抑圧されたものが、見られたものとの類似に置き換える形で現れたもの」である、と。フロイトのデジャヴュ論を鑑みても、デジャヴュにおいて原型となる記憶は無意識的記憶であり、言い換えれば是認されて無意識に入ってきた要素であるので、排除されたものではない。すると幻覚とデジャヴュの間には、「再認されなかったもの/再認されたもの」という区別が立てられることになる。
ラカンはまたセミネール第3巻『精神病』においても、幻覚(言語幻覚)について論じるついでに「デジャヴュ」に言及している(S3上巻185頁)。
言語幻覚あるいは幻聴は、必ずしも我々が思うように、耳で聴こえているわけではない。言語幻覚の体験はそういう、単純な意味での耳で聴くというのとは異なる。ラカンは、言語幻覚に対する問いの誤ったアプローチ(例えばその幻覚は感覚なのか、知覚なのか、統覚なのか、解釈なのか等々)をしないよう忠告している(182-183頁)。そうではなく、「確信と現実との区別、そこに重要な点があるのです」(184頁)。
そこから、分節化され歴史化された象徴のネットワークが我々の言語活動を支えていることを説明する。だが、幻覚とどのような関係があるのか。
ラカンは続いて、「現実感le sentiment de réalité」について論じる。「現実réalitéという特徴を与えているのはレミニサンスすなわち印象の湧出が、歴史的連続性の中で組織立てられること」である(185頁)。なるほど、知覚が現実であるという感覚が成立するためには、諸印象が象徴的ネットワークの中で秩序づけられることだ、ということだろうか。そしてまた、「印象の湧出」と「歴史的連続性」との間の別の関係においては、「非現実感le sentiment de irréalité」が生じるとも言われる。現実感と非現実感は奇妙な関係にある。「感情的な領野においては、現実感であるものは非現実感です」。
セミネール1巻の「現実感」に関する記述を見てみよう。
「私たちはこの問いによって、先日私が『狼男』の幻覚の成因を論じた際に手がけた現実感le sentiment de réalitéという問題の核心へと導かれますその時私はあまりにも単純明快で具体的な代数学のような定式を提示しました。つまり、現実的なものréel、あるいはそのようなものとして知覚されるものは、象徴化symbolisationに対して絶対的に抵抗するという定式です。結局、現実的なものの感覚le sentment de réelが最も強く現れてくるのは、非現実的で幻覚的なある現実の切迫した現れにおいてではないでしょうか。」(S1上巻110頁)
現実的なもの〔レエル〕は象徴的ネットワークから「排除」されているので、象徴化に対して絶対的に抵抗する。ここまでOK。しかしラカンは次に「現実的なものの感覚le sentment de réel」というように「réalité」を「réel」に変えて、この意味での「現実感」は「非現実的で幻覚的なある現実の切迫した現れ」において現れると述べる。おそらくこの切迫した現れとは、狼男における切断されかかった小指を意味しているだろう。そのイメージが持つ現実迫った切迫感と、同時に訪れる幻覚的な非現実感。そのアンビバレンスを述べていると思われる。
現実感=非現実感=「すでに見た」=「すでに話した」、ということ?そんなに単純だろうか。
調べてみたら、デジャヴュについてのフロイトとラカンの考えをまとめた記述があった。
読んでみると、「狼男の幻覚の場合のように、デジャヴにおいては、肯定〔是認Bejahnung〕を伴わない知覚が存在するのですIn deja-vu, as in the case of the Wolf Man’s hallucination, there is a perception without an affirmation.」と述べている。これは上に解釈した僕の見解と異なる。僕は、幻覚は元となった観念が排除されている(つまり是認されなかった)が、デジャヴュの元となった観念はフロイトの説と同様に無意識下に抑圧されている、と考えた。しかし記事の著者は、ラカンにおいて狼男の決定的体験が、ラカンにおいては無意識からすら排除されているということから(ここまでは同意)、これをデジャヴュにも適用することで、ラカンにおけるデジャヴュの原観念も、排除され象徴界に位置を持たないものだ、とみなしている。
これは間違っていないか?ラカンはあくまでも、幻覚のメカニズムを理解することでデジャヴュがより深く理解できると言っているのであって、幻覚とデジャヴュが同じだと言っているわけではない。しかも「すでに話した」現象は、それ自体は幻覚ではなく、幻覚についての記憶に関する語りである。それ自体に幻覚は関わっていない。それに「〔デジャヴュは〕再認されたものと見られたものというこの二つの関係様式の間に位置している」(S1上巻98頁)と言われている。別にラカンがフロイトから逸脱する理由もない。
さて、もう何点か曖昧なところをはっきりさせよう。現実感と非現実感の関係であるが、これがほとんど裏表になっているというのは、「感覚sentiment」の領野においてこの二つはグラデーションであるからだろう。つまり、印象の湧出が歴史化され、象徴的に秩序づけられることによって、普段の現実感は構成されている。しかしここに一部支障が出ると、「ほんの少し何かが欠けている」(S3上巻185頁)というシグナルが発生する。おおよその現実感のなかにポコっと現れる非現実的な部分。そういう関係になっているのではないだろうか。
また、デジャヴュが「同音異義homonymie」(オモニミー)のようなものだと言われている部分。これはつまりデジャヴュが言語的な類似性に従って、それゆえ象徴界における関連性に従って、訴求的な照会を行い、失敗することで生じる現象だということだろう。
現実感と非現実感については他にも言及箇所がある。
S1上巻: 110頁, 187頁、
S3上巻: 21頁, 184-5頁、
S3下巻: 206頁、
細かい引用は省略する。ただこれらの箇所では、幻覚(特に言語幻覚)などの「基礎的現象」が持つ強い現実感が問題となっている。メルロ=ポンティ『知覚の現象学』でも論じられ(中島訳、547-564頁)、ラカンが明示的にメルロ=ポンティを参照先にしながら言っているように、精神病者は基礎的現象である幻覚を、それが幻覚だとわかっていても、無視することができない。それが自分に重大な関わりを持つものであるということを、払拭することができないのである。
「つまり、現実的なもの、あるいは現実として知覚されるものは、象徴化に対して絶対的に抵抗するという定式です。結局、現実感le sentiment de réelが最も強く現れてくるのは、非現実的で幻覚的なある現実の切迫した現れにおいてではないでしょうか。」(S1上巻、110頁)
「言語幻覚が現実界の中に現れる時、それは『基礎的現象』の根本的な特徴である現実感le sentiment de réalitéを伴って現れるのですが、この時主体は文字通り、その自我によって話すのです。」(S3上巻、21頁)
さっきまでは「現実感」は印象が象徴的秩序の中におとなしく収まることによって構成されると言われていた。しかし上の二つの引用では、むしろ象徴的秩序から排除されたものが現実界に出現した場合に、それが極めて強い「現実感」を伴っているのだとされる。これは全然逆のこと、あるいは正常と異常(狂気)が一緒くたになってしまっている。
結局、幻覚とデジャヴュと現実感、これらの問題系の中でもっとも紛糾の中心にあったのは、現実感が幻覚的なものなのか正常知覚的なものなのか判然としないということであった。
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