2025/5/29

今日、ボランティアで弁当を配りに行っていて、職員や先輩に加えて、新しく参加した新人さんと歩いた。その新人さんは看護師が本業だが、それとは差し当たり別に、普通にボランティアに参加したいとのことだった。大人しく、存在感は薄い人だった。

あまり詳しいことは書いてはいけないのだが、訪問した人の中に足が痛いという人がいた。それで一同がどうしたものかと、とりあえずコミュニケーションをとっていると、その看護師さんがちょっと見せてくださいと言って手を伸ばした。路上生活をはじめてしばらくの男性は、(自分の足は)汚いからといって拒もうとしたが、看護師さんは大丈夫ですといって男性の足の踵部分を触診した。腫れていて、やや熱を持っているとのことだった。ほかにも、血圧を測るのが怖いからと健康検査を渋っている男性の手をとって、慣れた手つきで脈を測っていた。

その献身の躊躇のなさに胸を打たれた。かつて皮膚病患者に躊躇なく触れ、癒したイエスを想った。もし自分が路上生活者だったとして、荒んで汚れきった身体と心にそんなふうに触れてくれる人が現れたとしたら、本当に救われた気持ちになると思う。美しい光景だった。

帰り、駅までその人と話しながら歩いた。これも大きく省略するが、とにかく、お世話する人にはいろんな人がいて、必ずしも謙虚な人ばかりではないのだが、それでもそういう人たちを訪ねて世話をするということが面白くて楽しいのだという。

もし世の中にそういう人がいるのだとしたら、もし僕が認知症なり体が動かなかったりするなどして、もはや特殊な意味での生産性においてまったくの社会のお荷物になってしまったとしても、あるいはもっと近くの周りの人の迷惑と負担になるだけになったとしても、それでも他人の世話になって生きるということがあり得るのかもしれないと思った。そうした状態には、いずれにしてもいつかなるのだ。だが、その時、もし運よくかの看護師さんのような人に触れてもらえるとすれば、自分はなによりも幸福だと思う。

少し前に、一つ心に決めたことがある。こういうことを考えてみた。もし自分に愛する子供がいたとして、またそれとは別の知らない人の子供がトラックに轢かれそうになっていたとき、自分はどうするだろうか。知らない子供を助けるなら自分は死ぬとする。そしたら僕は愛する自分の子供をある意味で捨てて、目の前の子供を選んだことになる。だがもちろん、愛する子供を選べば目の前の子供を見殺しにすることになる。

僕はこう考えた。そのような状況で、僕は目の前の子供を助けて死ぬことを選ぶ。もしそのことによって自分の愛する妻子が路頭に迷うことになったとしても、そうする。

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