2025/5/18

朝起きて出かけようとしたら、そういえば新宿無教会の人にここにいけと言われている別の集会場があったことを思い出した。新宿の方は高齢化が進んでいるので、若い人は若い人が来ているところに行った方がいい、と自由が丘の集会(月1回)を勧めてくれたのである。僕自身は新宿集会の雰囲気が好きなので今後も通いたいのだが、せっかく教えてもらったということで試しに行ってみた。

人数は少なくて、たしかに平均年齢は新宿集会よりも低かった。聖書講義もそれなりに時間をかけて準備されたもので、面白かった。ただ新宿と違ってオルガンがないので、PCで再生された伴奏に従って讃美歌を歌った。とても快く迎えてくださった。来月も行こうと思う。

そういえば僕はあまり内村鑑三の文章は読んだことがないのだが、内村自身は札幌農学校で生物学のようなことを学んでいて、実際にそういう仕事もしながらキリスト教徒になり、聖書を学んだ。僕ももとは北海道大学で生物学を学んでいて、そこから文転して哲学を学び始めた。いわゆる文転組というか、もちろん聖書を学んでいるのは理系の人たちもたくさんいるので文転というわけではないのだが、やはり理系出身者による文系科目の履修、というのは大体精力的に行われるように経験的に思う。僕のまわりでもそう。なんとなく縁を感じる。

それから全く話は変わるが、4日前くらいに昼食を食べていたら思いっきり舌を噛んでしまい、いまでもまだ完治していない。噛んだときはあまりの痛みと、口腔内の状態についての想像(血が出たとか、怪我部分に食物が触れることの不衛生さとか)で気分が悪くなってしまった。さすがに4日経てば以前よりも痛みは引いているので、治りつつあることは確かである。だが、ご飯を咀嚼している時の舌の位置、歯の噛みかたに集中しないと怖くてものを食べられなくなっている。

そもそも、口というのはおかしい構造をしていると思う。何十キロという力でガシンガシンと開閉している硬い歯のすぐそばで、柔らかい舌がうねうねと動いているのだろうか。工場であればプレス機の近くに不用意に指を近づけているようなものである。危険である。これは歯医者の時にも感じていた。歯のような硬いものを削るためのドリルが口腔内で回っている中で、舌の置き場に困る。もしあのドリルに舌が触れてしまったら、舌は砕け散るのだろうか。だがこの構造は、おおよその動物には共通している。なんらかの合理性があるのか。

それに、ものを食べるという機能(あるいは味を感じる機能)と言葉を話すという機能は、なぜこんなにも別ジャンルの機能であるのに口という一つの器官に集約されているのか。そこから、本を食べる、であるとか、味わうというような、比喩表現が生まれてくる。

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