2025/5/7

ゴールデンウィーク明けなので、大学の財務部に行って、経費の申請書をいろいろ提出してきた。いくつかのものについては、さらに申請書が必要な旨を教えてもらった。

新約聖書のイエスが話した例えの中に、ぶどう園の喩えというものがある。これはいろんなところで喋っているのだが、簡単に言えば、まずあるぶどう園の領主がいて、この領主が1日10,000円で働き手を雇うと考えた。午前中に広場に行くとぶらぶらしている人がいたので、1日10,000円で働かないかと言って雇った。午後に行くと、またぶらぶらしている人がいたので、雇った夕方ごろ行くとまたぶらぶらしている人がいたので、雇って自分の農園に送った。そしてその日の業務終了後、領主は夕方から来た人たちから、順番に全員にそれぞれ10,000円を支払った。すると、朝から働いている人たちは、自分が長く働いている、夕方から働いている人は1時間しか働いていないのに、自分たちと同じ10,000円を受け取るのはおかしい、と妬んだ。

一般的な解釈としては、朝から働いていた人たちというのが、例えば若い頃から神への信仰を体現するような禁欲的な生活を送った人たちで、夕方から働いた人たちは、罪人や信仰を持たない放蕩生活を送ってきた者たちである。このタイプの例えはもっと誇張されて、単に皆が同じ一万円を受け取ると言うだけでなく、むしろそのような罪人たちこそが、神の恩寵を受けて、それ以外の人たちはほとんど忘れられてしまうというような話もある(放蕩息子の例え、1匹と99匹など)。

大体、僕はいつもこの話をするときに、結局、自分はこんなに頑張っているのに、みんなよりも優先的に報われないことが嫌だ、という卑しい考えを抱いている時点で、神から忘れられて当然なのだという教訓を引き出す。つまり頑張っていると思っていた。その人は、信仰と言う面では全然頑張れていないのである。小賢しいことを頑張って考えているうちはダメなのである。

とは言え、それは置いといても、今日このことを考えていて、この喩えはまはしく日雇い労働者の話だなと思った。そう考えると、山友会の手伝いもまた新鮮に見えてくる。かつて日雇い労働者の街であった山谷。この世に生まれ落ち、生きていくと言う事は、そもそも日雇い労働のようなものなのかもしれない。

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