テクストを読むというときに必要な能力の一つとして、言葉の多義性についてのある種の敏感さというのがある。僕自身が敏感かどうかというと、過度に敏感だったという経験と、逆に鈍感だったという経験がある。
よく思い込みが激しいと言われた。いついつの予定がこうだ、と思い込んで疑わなかったために、その思い込みのために準備万端で用意していても、本当の予定を外してしまうことがあった。また、人から話しかけられた時に、しばしば応答が遅延することがあった。それを指摘されることもあったが、自分にとっては相手の言っていることが理解できないのではなく、複数の解釈可能性の中でどれがこの場で適切であるかと演算していたのであった。もちろん「普通の場合ならこの解釈だ」というのがわかっていながらも、別のこの解釈も可能性がなくはないな、などと考えてしまうのである。
テクストを読む時には、一つのディスクールに対して複数の解釈可能性が浮かんでしまうくらいがちょうど良い。なぜなら哲学的なテクストの場合、しばしば通常の用法とは異なる語の使い方や、歴史的・地理的に隔たったテクスト、すなわち語の用法に現代の我々とズレのあるテクストを扱うからだ。一読して意味が読み取れない場合、別の解釈を採用することで筋が通ることがよくある。このときに、言葉の多義性に対する敏感さが有利に働くのである。
ここまでは聞く・読むほうの話だが、語る・書く・行為する場合にも多義性がキーワードとなる。言葉がその本性からして多義的であり、少なくとも自然言語において厳密な一義性は実質的に不可能であると知っているならば、その前提で他者とのコミュニケーションをとることが自然と身につくようになる。つまり自分の伝えたい内容は、その内容をそのまま言葉にしたところで伝わらない、というのが言語なのである。だがそうであれば、別の内容の言葉をいくつか組み合わせて誘導していくことによって、結果的に自分の伝えたい内容に辿り着くことも考えうる。言葉だけでなく、他者に対してある解釈可能性を開くようなコミュニケーション一般(行為なども含むだろう)について同様のことが言える。
ある意味で、いかに世界の多義性を前提とし得るかということが、成熟ということの定義であるかもしれない。多様性から多義性へ。だが多義性とは意味(意義)が多くあるということではなく、意味(意義)がないということである。
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