2025/4/14

今日、ゼミで折口信夫の『古代研究』を講読した。去年の柳田國男のテクストは読んでもなかなか思考が促進されにくくて苦労したが、折口のテクストにはかなり色々と想起させられた。折口自身のテクストを読むのはほぼ初めてだったが、自分に合っている気がする。また、何となく以前から柳田と折口の関係がフロイトとラカンの関係に似ている(この継承関係モデルはほかにもある。例えば法然と親鸞、宣長と篤胤、旧約と新約、などなど)と思っていたのだが、実際に少し読んで、その推測はあながち外れていないと感じた。

折口の文体の読みにくさ、難解さにはいくつかの理由があるだろうが、背景知識が説明されないままにさまざまな典拠への参照があること、高度に圧縮され装飾された文体などがある。この辺りはラカンの難解さに近い。この手の文体のテクストというのは一部を読んでいてもわからないことが多く、別テクストに現れる同じ話題をいくつか探し当てて、そこと対照させながらテクスト間のネットワークを作っていくような仕方で理解を深める必要がある。

典拠の省略や、圧縮され装飾された文体は現代における論文のスタンダードな形式から完全に逸脱したものであり、一つの論考の中で議論が完結していない、言葉の定義が完結していないといった不明瞭さにつながる。その部分を嫌う人も多くいるだろう。ただ僕がなぜそういうややこしい文体が好きかというと、読解を通じて自分自身が能動的な学びの主体にさせられるからである。典拠が省略されている記述をほかの文献をあたって色々と調べてみる、折口は(ラカンは)こういう意味でこの事例を使っているなと解釈してみる、読み続ける中でここは前に別のテクストでも論じられていたぞという気づきを得る。これらの体験が一個の「謎解き」となって、まだ世界が神秘に満ちていた時代の人間の心理を擬似体験することになるのである。

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