完全に拠点を実家に移す。久々によく寝て、何の予定もなくゆっくり過ごせた。大量の本やら服やら荷物やらの一部を整理していた。結局読まなさそうなものはフリマか古本屋に持っていけるように別にしておく。
明日の午前中に吉祥寺の部屋で家財宅急便の立会いをし、そのまま大家さんに菓子折り、不動産屋に鍵を返却。それでようやく終わり。たが歯医者の予約があるので何度かは吉祥寺に行く。
留学から帰ってきたら今度は東京の東側の下町、谷根千などの本郷キャンパス近くに住んでみようかなど先走って考えるが、中野のアトリエでの家庭教師は続けたい気持ちがある。要望もある。中央線沿いなら中野に行きやすいし、吉祥寺に住んでから荻窪や西荻窪の良さを認識したこともある。ただいずれにせよ、今度はエレベーター付き物件だろう。引っ越し屋も。4階の高さを重い荷物を運んで昇り降りするのは今回がぎりぎり。二度とやりたくない。これができるのは20代か鍛えた30代だろう。
そもそも人文系の研究者というのは気をつけていても家が本でいっぱいになるものであり、とにかく本は重い。場所も取る。そう何度も引っ越しを繰り返す向きの職業形態ではない。熊谷守一は現在美術館になっている池袋近辺の旧熊谷邸に40年以上住んだというが、そういう不動的な生き方が合っている。あるいは平屋か。たとえば今後地方の大学等に勤務することになったら、マンションというよりは古民家的なところに入居したほうが広々かつ引っ越しが楽なのかもしれない。
そんなことを母に車で送ってもらっている時に話していたら、研究者という仕事の孤独の話になった。研究者、とくに哲学者が孤独なのは、それはそう。研究者同士のネットワークはあるし、社交的で友達の多い哲学者だってたくさんいる。僕自身は単独行動や単独生活が多いが、正反対に常日頃誰か人のそばにいるというタイプもいるだろう。だがそれとは別に、哲学者は孤独なのである。哲学者は交友関係の多寡とは独立した絶対的な孤独を有するのであり、この孤独を持たない者は偽物である。あるいはもっと言えば、人間はみな共通に孤独なのである。哲学者は人間の普遍的孤独に定位し続ける者のことをいう。昨今の言論状況の一部では孤独の大切さを説くものがあるが、一人の時間をつくろうと作るまいと、人はみな結局のところ孤独なのである。重要なのは、自分の立っている足場が絶対的な孤独という崖っぷちであるということの自覚、実感である。それはただ部屋の中でひとり想いに耽ったり読書をしたりするだけでなく、むしろ他者との特定の接触によっても喚起されるものである。
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