2025/3/29

寝巻きのようなものを持ってきていなかったので、上はヒートテック、下はズボンを履かずに寝たら寒くてあまりよく眠れなかった。窓側のベッドだったというのもあると思う。変な夢を見ながら夜中何度も起きた。朝8時30分からの発表。起きて身支度して、会場に行く途中のセブンイレブンで何部か資料を印刷。発表自体は寝ぼけてたのもあってか、リラックスしてできた。やっぱりフロイト、ラカンにおける父権制と母権制の関係は一度ちゃんと調べて考えてみたい。

Zafiropoulosはラカンが母権制を持ち出してフロイトの父権制理論批判をしているなどと主張するが、フロイトもまた『トーテムとタブー』の中では、父権制より以前に母権制があった、父性神の前に母性神がいたはずだと言っている。そこで僕は、生まれた子供が母方トーテム所属=母権制=母息子インセストの禁止=原父殺害というふうにして、フロイトの原父殺害神話と母権制は両立するのではないかと考えた。しかし、原父殺害事件は父性神の成立プロセスであることは大前提としてあるわけだから、一体どうなっているのだろうというところで今回はしっかり整理しきれなかった。

ただ、こう考えられるかもしれない。LSは『親族の基本構造』第29章「親族の原理」の中で『トーテムとタブー』批評をする際、『トーテムとタブー』に向けられる典型的かつ決定的な批判として、社会生活を前提にして社会生活の発生を語るという循環論法になっているとするものを挙げている。つまりフロイトは社会共同体の発生(人々を社会的関係に結束するものとしての殺された父)を論じようとするときに、それ以前の社会(父が女を独占する社会)というものを前提にしているわけで、それだったらその最初にあった社会はどうやって生まれたんだよ、となるわけである。しかし、母権制のあとに父権制が始まり、またラカンが『家族複合』の中で「預言者制」というの論じているのを鑑みると、社会以前の社会というのがつまり母権制ということなのではないかとも思う。ラカンがそこで言っているのは、ユダヤ教の歴史が預言者の発生とその排除の歴史であるというのは、母権的社会の中に父権制を導入しようとする預言者とそれに対する共同体の反応が現れているのだということである。したがって、こう言えるかもしれない。社会は常に母権制であり、母権社会である。そこに父権制を導入しようとする者は誰でも排除され、殺される。だがそのことによって、預言者ひいてはイエス・キリストは死者となって社会の無意識を支え続けるのである、と。レヴィ=ストロースもまたフロイトの原父殺害を、かつて存在しなかったしこれからもあり得ないことであるとし、だからこそそれは祝祭として、人々のユートピアとして模擬されるのだと語っていた。だから、父権制は実際には存在しないし、存在し得ない。父権制は母権制の中から現れては殺され、殺されることによってまた芽を出す不死鳥的現象である。

母権制があり、原父殺害があり、父権制が誕生し、今現在の我々は父権的社会に生きている、と素朴に考えるのが間違っているのではないか。父権制はそういうものではない。父権制はある意味でもっと弱小で、無視され、それでいて人々を背後から襲う恐ろしい幽霊である。一度そのように考えてみて、ラカンの記述をもう一度見てみよう。

とにかく眠い。

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