思想塾論文進捗。1万字手前くらいまで書いた。まだ書きたいことがあるが、うまく書けるかわからない。
一昨日くらいだったか、夜、絶望感が強くてさめざめと泣いた。泣き終えてから録音して、仰向けになって天井を眺めながら一人で話した。一人で話すと落ち着いた。こそこそ声を出すのではなく、近くに安心できる人がいるかのようにして、語りかけるように話す。そうすると本当にその誰かがいるかのような安心感があった。神さまに話しかけているのかなとか、祈りってこういうことなのかなとか思ったが、神さまが相手ならもっと平伏とかしないといけないのかなとも思った。語りかけるということが、僕の中であるモードを作り出すらしい。
一人でいる僕の語りを聴いてくれる誰かは、僕が何を言っても何も返さない。でも、僕が何を言ってもそれを全部聴いてくれている気がする。ただ黙って全部聴いてくれている。言葉と言葉の間が長く途切れても、僕が続きを繋ぐのをじっと待ってくれている。そうするとすごく本心が出てくる気がする。自分の心の中にあるものをちゃんと言葉にできる。急いで話さなくてもいい。
今日の昼もジョビンを弾いていたら悲しくなってきて、今度は録音せずに布団の上で話していたら涙が溢れてきた。やっぱり自殺ということを一度はちゃんと考えてみなくちゃダメだと思って、とりあえず人に迷惑がかからない死に方とか、人のためになる死に方を考えたり調べたりしてみた。
今読んでいる大江の『燃え上がる緑の木』で、ギー兄さんが救世主としての活動を始めた頃、病気の神童じみた中学生のカジと交わした印象的な対話があった。ギー兄さんは、分かってもらえないかもしれないけど、自分の命よりもあなたの命の方が大事だという考えが自分の心の中にはあるんだ、と語りかける。カジはそれに対して、もしそれが本心なら、あなたは自分の血液と拒絶反応を起こさない入院患者を調べ、その人の手術日をチェックしておき、臓器提供の意思を記した遺書を持って、その日に丁度いいタイミングに病院の前で事故死するべきだ、と言う。
いや、確か別の人がギー兄さんの話としてカジに伝えたのだったか。その人が、自殺はギー兄さんのその後の治癒活動や伝道活動を止めてしまうのだから良くない、と相対的な反論をするが、カジはそれに対してまた、その自殺はみんなに広まって影響力を持つから変わらない、とか、そんなことを考える前に事故死するべきだ、考えた後ならなおさらすぐ事故死するべきだ、とたたみかける。
人の迷惑にならない死に方なんてあるのだろうか?親が死んだ後、とか、親が死んでさらに知人友人たちから数年間遠ざかり、僕に対する欲動備給を少なくしてからひっそり、とか?時間がかかるな。やや非現実的だし、そんなに策を講じたところで、僕の自殺にショックを受けて後追いする人がもし出たら最悪である。でも死ぬなら、迷惑にならないなんていうのでなく、ひとの力になりたいと思った。僕が死んで人を勇気づけるなんてことがあるか、どうやって?そう考えた時に浮かんだのはイエスの死だった。イエスは自分の死を見通していて、生きて、それから死んだ。イエスの死はたくさんの人を勇気づけて、その人たちを力強く生きさせ、そして死なせた。イエスに力をもらってエックハルトや十字架の聖ヨハネやキェルケゴールやヴェイユらが、それぞれに生きて死ぬことで、それがまた多くの人に力を与えた。僕も力をもらった。それなのに僕が生きることを諦めて自殺したらその人たちの努力を無碍にすることになる。
多分、彼らが決死で生きたその度に、イエスは何度も受肉したのだと思う。その度に受肉して、死んでいった。それがまた次の人に受け継がれていく。それが僕にもつながってきているのかもしれないし、僕の中にイエスが受肉するかどうかは、僕に託されている。だから、僕がそんな大仕事をやり通す自信は正直ないけれど、とにかくもそれに応答したいと思った。
よくめげそうになったり悲しくなったりするが、鬱みたいな自律神経的な不調はなくて、落ち着いているときはいい感じ。読書も作業もできている。
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