2025/2/4

思想塾論文進捗。ようやくマタイ福音書の話に入れそうだ。そしてフロイトの「文化への不満」を光文社古典新訳文庫で読み終わった。中山元の訳業はすごいと思う。自我欲動と対象欲動の区別から、ナルシシズムにおいてこの区別が曖昧になること、そこからフロイトはユング的な中性リビドーに行くのではなく、「快原理の彼岸」でエロス(リビドー)とタナトス(死の欲動、破壊欲動)という二種類の欲動が本質的な区別であったというところにいく。そこらへんの復習も一通りできた。色々と考えたことや、思い当たる節もたくさんあった。たとえば対象に向かう欲動の中にはエロスとタナトスが両方含まれていて、それがサディスティックな傾向を形成する。しかしこれが自我に向かうと自らを破壊しようとするマゾヒスティックな傾向を形成する。罪悪感というのは父性的なものに対する攻撃欲動が解放されなかった場合(何らかの理由で父性的なものに攻撃欲動を向けられなかった場合)に、方向転換して自我自身に攻撃欲動を向けることで作られる。これがやがて父性的なものを同一化によって取り込んで作り出した「超自我」の審級となって、超自我はいつでもどこでも自我を監視し、攻撃を加えてくるようになる。これが「良心」である。だから罪責意識というのは自罰的な作用であり、マゾヒスティックであると言える。

さらに、外界に対して自分の思い通りにことが運ばず不自由で不幸な経験をする(これはつまり愛が与えられないということを意味する。欲動充足の断念である。)ことで、超自我の自我に対する攻撃はさらに強まる。つまり不幸(欲動充足の断念)を経験することで罪の意識を強めるということ。これはフロイトによれば、最初は良心が自我に欲動の充足を断念させて謙虚にさせていたのであるが、それが逆転して、欲動充足の断念(=不幸)が良心を強化するようにも働くようになるのである。色々と辛いことがあって不自由な経験をした人ほど、良心がきわめて厳格になる。聖人など。イエスもそうだ。不幸・不条理に対して人は良心を強化することによって対応している、ともいえる。なぜ良心を強化するように働くかといえば、そもそも良心による自罰は愛の喪失の不安から生まれたからである。

欲動充足が阻止(つまり愛=エロス=合一が得られない)されると、人は不安になり、より道徳的で従順になろうとして、良心の働きを強化する。自罰的になる。それを別角度から言えば、外部に解放できない攻撃欲動を転換して超自我から自我に向けて攻撃するマゾヒズムでもあることになる。

フロイトは主にキリスト教を念頭に置いていると思うが、宗教が生み出す自罰傾向、罪責意識が神経症には含まれており原因になっていることから、宗教に対して批判的である。この頃のフロイトは(児童)教育に精神分析を導入するべきだと考えていたようで、必要以上に理想的な倫理道徳を子供達に教え込み、過剰な罪責意識を植え付けることは人々を不幸にすると主張している。だからフロイトはエロスとタナトス(あるいはアナンケー)という二つの天の力のバランスが大事だ、というある意味至極まともで保守的な立場である。罪責意識を持たないことはできないが、持ちすぎないようにコントロールしましょう、というわけである。だが僕からすると、フロイトがしばしば聖人の境地を話に出しながら、精神分析的にそこで何が起こっているのかを考えようとしていない。それはごくごく限られた人にしか不可能な意識操作だから分析しても参考にならないと言えばそうだとも思う。しかし、神の前の「貧しさ」とは良心を極限まで強化していった最果てであって、そうなることが救済になる。フロイトはキリスト教道徳、キリスト教的教育を批判していたのだと思うが、原始キリスト教がなぜそのマゾヒスティックな罪責意識に「救済」を見出していたのか、そこについて述べてはいなかった。

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