ローマの信徒への手紙3:8にこうある。
「それに、もしそうであれば、『善が生じるために悪をしよう』ともいえるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です。」
私たちは不義で、対照的に神は完全な義である。神がわれわれを裁き、われわれの不義が神の真実によって明らかになることで、神の栄光もまた示されることになる。このロジックからすると、われわれがあえて悪を行うということが、神の義を証しするために是非とも必要だ、というような奇妙なことになってしまうのではないか?ということである。
もちろんロマ書はこれを否定する。ここにはキリスト教における造悪論といえるものがある。造悪論としての代表は親鸞の『歎異抄
』である。念仏を唱えれば誰でも成仏できるのであれば、あるいは悪人正機で悪人こそが救われるのであれば、敢えて悪を行なっても良いのだろう?という邪説が蔓延り、親鸞はそれらの抑制にたいへん苦心した。
僕が確認したところでは、親鸞はしかし、なぜ造悪がダメなのかについてはっきりと語っていない。例えば「くすりあればとて毒をこのむべからず」(岩波文庫版、p. 67)と言い、弥陀の救済という薬があるからといってわざわざ悪を行うのは良くない、と言っている。これは『末燈鈔』十九番にもある内容だが、そちらを確認しても、常識として当然良くない、というほどのことしか前後には書かれていなかった。
吉本隆明が親鸞を論じた造悪論ではたしか、そもそも悪を行うということ自体も人は機縁(業縁)なしには不可能なのだ、全ては他力なのだ、と語っていた。機縁があれば1000人でも殺すが、機縁がなければ一人も殺せないのだ、というやつである。これが造悪論の邪説に対する有効な反論になっているのかいまいち納得しない。ただ悪というものの思想としてはそこから様々なことが言えそうで、大変興味深い。
キリスト教においてはどうかというと、ロマ書の続く部分では、正しい者など一人もいない、という話がある。神の前ではすべての人が罪人である。「罪」という概念が導入される。また、律法を実行するだけでは不十分で、それだけでは義とされない。人が義とされるためには本質的に「信仰」が必要なのだ、とされる。当然ながら、律法を実行していても信仰がない場合があるし、律法がうまく実行できなくても進行している場合がある。唯一の尺度は信仰となる。
なぜこれが造悪の邪説に対する回答になるのか。われわれは常に不義で、罪深く、対照的に神は義で、罪人たるわれわれを裁く。そこで「悪をなす」というのが何を意味するのか。われわれが常にすでに罪深いことと、「敢えて悪をなす」ことの間には違いがある。罪深くても、おそらくは信仰によって、神の義を証しすることができる。信仰というのが、われわれが神の前で罪深いということの信仰である。敢えて悪をなすことが神を義とするのだと主張する者は、神を義とするような悪というあり方=罪というあり方を理解していない。
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