昨日か一昨日あたりの夢で、中学時代に苦々しい記憶のある友人が出演していた。中学に入った頃仲良くなった3人がおり、ぼくと合わせて4人組はいつも一緒にいた。やがて僕が「いじられ」役になり、対等だと思っていた(僕自身はそう思いたかった)関係には徐々に傾斜が加わってきた。ある日の下校中のことを覚えている。その友人の一人がヘマをやらかし、それに対して僕以外の二人がツッコミを行った。僕もそれに乗じてつっこんだところ、そのヘマをやらかした友人は格下である僕につっこまれたことに即座に反応し、お前みたいな奴が生意気な、ということで僕のことを蹴った。指のあたりに足が当たって痛かった。悲しみが込み上げてきて、泣きそうになった。
夢の中ではその友人が結婚し、新しく飲食店をオープンしていた。そこに僕がいって、10年以上経っていたが、再会することになった。僕の方は苦々しい記憶を覚えていたが、今となっては過去のことであり、店のオープンを祝福する気持ちであった。顔を合わせると、その友人は僕のことを覚えていないようだった。とても朗らかで、メニューの中から勧めてくれた。僕はそれに対してごく一般的な新規客として振る舞い、その友人とポジティブかつ一般的な社交を行った。
キェルケゴール『死に至る病』を昨晩に読み始めたら没頭してしまい、今読み終わった。この本をたとえば大学のゼミで読むなどというのはちょっと考えられない。読み手を単独者として措定し、信仰するのか、しないのか、それを迫ってくるからだ。キェルケゴールは針に糸を通すような天才的な論述で、言い訳の隙を埋めていく。読者はこの内容を本当に理解するか、理解できないかであり、理解できたとすれば信仰の可能性を前に黙らされるか、必死に自分を言い聞かせて欺瞞の中にとどまる虚しい努力を繰り返すだけになるかである。
死に至る病とは絶望のことで、それがいくつか分類される。そして絶望とはそれを意識していなくても絶望と言える類の弁証法的な病であるため(「精神」というものの弁証法的性質がそれを可能にする)、あらゆる人が絶望の状態にあることになる。絶望していない、とは信仰による救済を真の意味で受けたごく一握りの人々に限られる。
第二編では実際のキリスト教徒も含め、信仰しているとはどういうことなのか、それが欺瞞的である場合には何が起こっているのかが論じられる。自分は絶望してないと言っても本当は絶望しているということがあるように、自分は絶望していると言っても本当は絶望していないということがあるのである。そして、自分が本当は絶望していないことを知らずに自分は絶望していると思い込んでいるそのことが、一つの絶望なのである。
したがって絶望に諸段階を見ることが可能であり、絶望の度合いが、その深さが深まっていくことが信仰への道となる。しかしこれも逆説的で、絶望の深さが深まるというのは本当に絶望的な絶望であることを意味し、その意味でその絶望は信仰から最も遠いとも言えるのである。神との関係とはそのようにして、遠ざかっていくことが近づいていくことになる。キリスト教とはそのような弁証法である。
人間が神の前に立つ時、罪を考えざるを得なくなる。キェルケゴールは罪のソクラテス定義という章で、正しく知っているということはそれを行為するということであるというソクラテスの知行合一説をキリスト教の領圏で考えている。それが善であると正しく知っているということは当然それを行うということであり、それを行わないのであればそれを正しく知っていないのである、というソクラテスの説。それをキリスト教の信仰で考えてみるとどうなるか。信仰が善であると知りながら信仰へ踏み出さないということがありうるのか。ソクラテス的に考えれば、ない。ここは細かいことは理解できなかった。だがキェルケゴールによれば、罪とは正しいことを理解できなかったこと(ソクラテス説)でなく、正しいことを理解しようと欲しなかったことである。非信仰者はキリスト教が正しいことであることを、理解しようと欲しなかったのである。つまり理解しようと欲するなら、そして理解したならば、当然信仰することになる。というよりも、理解しようと欲するというこの選択が信仰であるだろう。
さらに、罪の継続は新しい罪を作ることであると言われる。自分が罪ある者であることを自覚し、しかも信仰に踏み切らずにその罪をそのままにしておくことは、それ自体が一個の罪なのである。罪の継続に関する議論があることによって、『死に至る病』はいっそう圧迫性を高める。なぜなら、われわれ読者が『死に至る病』を読んで「理解する」とはどういうことなのか、この書を読んだにもかかわらず信仰を選択しないとはどういうことなのか、それが読者を「個別的人間」として措定し、迫ってくるからである。信仰を持つか、持たないでうじうじと自分を騙しながらこの先も生きるのか。そして何より、信仰を持つなら、「今、この瞬間」にしかあり得ないのだ。キェルケゴールはそう迫っている。来週から信仰します、まだちょっと考えます、なんていう回答はあり得ない。
キリスト教は個別的人間の宗教である。単独者と神との関係、裁定だけが問題になる。だから罪とは個別的・単独的でしかあり得ず、一般的な罪、概念的・思弁的な罪はあり得ない。これはキリスト教がユダヤ教派の近親共同体、同胞共同体からのリジェクトによって生まれたことに関係していると思う。そしてまたキェルケゴール自身が「肉体の刺」によって、絶対的孤独のうちで信仰というものを考えたことが、彼をキリスト教の本源的なところに導いた。「肉体の刺」は一説では、キェルケゴールが「せむし」であったことに関係しているという。以下の引用を見て、僕らはどう思うだろうか。
「肉体のこの刺は自分のうちに非常に深く刺さり込んでいるので到底それを引き抜くことはできないものと彼は確信している、そこで彼はいわばそれを位永遠に自分の身に引き受けようと欲するのである。彼はその刺に憤激を感じている、ないしもっと正確に言えば、彼はその刺を機縁として全存在に憤激を感じている、そして今やその刺にも関わらず彼自身であろうと欲する——その刺にもかかわらず刺のない彼自身であろうと欲するのではない、いな、全存在を向こうに回しながらないし全存在に反抗しながら、その肉体の棘と一緒に彼は彼自身たろうと欲するのである。彼はその刺を身に引き受ける、——反抗的におのが苦悩をほとんど誇りとしながら。」(p. 116-117)
キェルケゴールはきっと、自分を絶望における「強情」と考えていた、少なくともその時期を経験した。
「強情における絶望者もまた永遠の慰藉などには耳を傾けようとは欲しないのであるが、その理由は異なっている。——後者〔強情における絶望者〕は実に全存在に対する抗議たらんと欲しているのであるから、慰藉などはかえって自己の没落となると考えたのである。比喩的に語るならば、それはいわばある著作者がうっかりして書き損ないをしたようなものである。この書き損ないは自分が書き損ないであることを意識するにいたるであろう、(もしかしたらこれは本当はいかなる書き損ないでもなしに、遥かに高い意味では本質的に叙述全体の一契機をなすものであるかもしれない、)さてこの書き損ないはその著作家に対して反乱を企てようと欲する、著作家に対する憎悪からすでに書かれた文字の訂正されることを拒否しつつ、狂気じみた強情を持って彼は著作家に向かってこう叫ぶのである——『いや、おれは抹消されることを欲しない、俺はお前を反駁する証人として、お前がヘボ作家であることの証人として、ここに立っているのだ』。」(p122)
これに対する訳者の注:(37)「キェルケゴールは自分を人生の例外者として、いわば神の手になる『書き損ない』として意識しておった。」
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