2025/1/24

自然の決定論から脱走して自由を得るというとき、象徴の助けを得るという道だけが残されている。ただし、それの中途半端な使用、つまり自然との調和を図るための象徴使用がユダヤ教の戒律主義となる。自然と対立する人間の屹立をきわめようとしたところに、今度は象徴の決定論がある。自然による拘束を本当に離れようとしたところに、逆説であるが、象徴による完全な拘束がある。象徴による決定論は、主体にとって不幸として現れる。徹底的に神から見放されているという感覚として受容される(なぜか。自分の願望の放棄であるから)。ヴェイユはこれを「真空」と表現して、その想像力による充足を拒絶する。その中途半端な充足(充足は中途半端にしかありえないのであるが)が、真空は本当は満たされているということの自覚を妨げる。

このような取り組みは主体をとことん共同体から引き離す。福音書のイエスは自然によりも、人間たちによって苦しめられる。自然から遠ざかることと、人間たちから遠ざかること。

ヴェイユによると、不幸を純粋な不幸であらせるためには、不幸を忌避しなければならない。不幸を受け入れ味わおうとしてしまうと、もはや不幸ではない。これはキェルケゴール『反復』の「試練」についても言える。

吉本隆明の「マチウ書試論」は第3節になるといきなり頷けなくなった。第1節ではイエスという人物の非実在性とそれに変わって受け出てくる作者の人物像を論じ、第2節では荒野での悪魔の誘惑をドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』との対照で論じる。ここまではとても良かった。第3節では山上の垂訓を見ていくのだが、キリスト教的精神のマゾヒスティックな倒錯性、そこ意地の悪さを直接的に批判している。

僕は、これを単なるマゾヒズムで片付けてしまうのは勿体無いと思う。むしろ、敗残心理というものの極地、究極の負け惜しみとしてのキリスト教の到達点が普遍性を持ったという事実を見なければならない。だが吉本の批判が間違っているわけでもない。「心の貧しい人は幸いである」というのは、負け惜しみで言われていることもあれば、そうでなく言われていることもある。そしてその際どさがあるということが重要であるはずだ。

それは悪人正機説についても言えるはずである。悪人こそが救われる。それもまたそこ意地の悪いマゾヒズムとも言えるが、「悪人」であるということがどういうことなのかが問題なのであった。「不幸」であるとはどういうことなのか。不幸をマゾヒスティックに受け入れてしまったら不幸ではないのではないか。十字架にかけられてイエスも一瞬は神に見捨てられたと思った。ヴェイユ『重力と恩寵』より「真空は至高の充溢である。だが人間にこれを知る権利はない。その証拠に、キリストでさえ、一瞬にせよ、このことをまったく知らなかった。」(7-7)

荒地の悪魔の第二の誘惑、飛び降りてみろ、というやつについて。ヴェイユは、真空に耐えるという危険は犯さなければならない、「とはいえ進んで危険に身を投じてはならない(第二の誘惑)」(3-8)と書いている。つまり神を試してはならないというイエスの反論を、みずから真空(要するに埋めたいけれども埋めてはならない苦悩)を欲してはならない、というふうに解釈している(7-6)。真空は、求めてもいけないし避けてもいけない。避けてはいけない。しかし進んで求めるのは嘘だ。ここまでいけば、不幸をマゾヒスティックに楽しむことがキリスト教の到達点で全くないことがわかる。

親鸞が成仏する愚者とはなんたるか、悪人とはなんたるかを考え抜いた先に、『最後の親鸞』で言われるように絶対他力を解体して宗派性を解体してしまったのと同じように、福音書の思想は不幸とはなんたるかを考え抜いている。それは中途半端にいけばそこ意地の悪いマゾヒズムであるが、そのマゾヒズムを解体させることが要求されている。

フロイト『モーセと一神教』。かなり問題含みの論証であるが、ユダヤ人指導者として知られるモーセが実はエジプト人で、アメンホテプ4世(イクナートン)が推進した一神教であるアートン教を進行する王族であったと仮説する。イクナートンが没落するとともに土着エジプト人たちから迫害を受けたアートン教が、自分たちの生まれ故郷であるエジプトを憎んで脱出した、というのが出エジプト記のシナリオだったことになる。ユダヤ教典に割礼が登場するのは、エジプト人の割礼儀礼を輸入したのだとされる。このようにすると、ユダヤ教の誕生とキリスト教の誕生が、共同体からの放逐によるものだという点で一致してくる。

共同体からの放逐と、出征共同体に対する憎しみ(つまり負け惜しみ)によって誕生するというのは、その教団に対自性を付与すると思う。多神教のようにただ自然と直面する人間であるのでなく、人間と直面する人間が発生する。主体が神との倫理的直結性を獲得し、本当の「個人」を獲得するためには、一神教であるというだけでなく、共同体からの放逐という敗北を経験する必要があった。それがキリスト教の倒錯性であり、そこ意地の悪さ、自意識の発生につながってくる。自意識の発生はまた、自意識をいかに抹消するかという問題の発生でもあり、それが「不幸」という問題を生んだとも考えられる。

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