吉本隆明『マチウ書試論』において、イエスが40日間荒野を経巡って飢えた時の悪魔の問いかけが解釈されている。要するに吉本の主張は、原始キリスト教はユダヤ教がその戒律によって人間性と自然との中途半端な調和に落ち着いていたところにムカついて、人間性を自然とは完全に違うものとして独立させたということである。だから石ころをパンに変えよという悪魔の問いかけに対して、人はパンによって生きるのではない、神の言葉によって生きる、とイエスは返答する。
もちろん人間は自然性のくびきにかけられているのであって、食わなければ死ぬし、実際イエスはすでに飢えていて、自然の影響を免れていない。しかし福音書は、人間が現実ではなく神とこそ直結していることを思想として示す。もちろんこれは、現実を生きることの放棄としてニーチェによる批判を被る点である。ただ僕だったら、ニーチェはともかくとして、キリスト教奴隷道徳の批判のほとんどは、現実を生きることの放棄すら不可能な心から安易に発せられているだろうと思う。
第二の悪魔の問いは、神の子であれば崖から飛び降りても天使が助けに来るはずだ、というもの。これに対してイエスは、神をためしたりするもんではない、と答える。吉本はこの悪魔の問いが「倫理性そのものの問題が欠けている」がためにイエスがこのように回答したと解釈している。
僕がここで思うのは、第一の問いでイエスが申命記のモーセの言葉を引用して回答したのに対して、第二の問いで悪魔は、今度は詩篇の言葉を引用してイエスに迫ったことの切迫感である。イエスは第一の問いに対して「神の言葉によって生きる」と答えた。僕が思うに悪魔は、そのイエスの発言を引き取って、それだったらこういう神の言葉もあるぜ、そら飛び降りてみろ、と言ったのである。要するにここで、福音書が持つ言葉というものに対する絶対的な信仰が本当に試されている(悪魔はユダヤ教の律法学者の象徴とも考えられるが)。
これに対するイエスの答えをどう考えればいいのかよくわからない。神を試してはいけない、とも書いてある、とイエスはまた申命記を引用して答える。この答えはどんな意味を持っているのだろうか。例えば吉本は後年の「喩としての聖書」で、マルコ書における「奇跡」は、言語的次元における「隠喩」として考えることができると論じる。あるいは僕から言わせれば吉本は「機知」の議論をしている。イエスのもとにやってきてお恵みをと言った異教徒がいる。イエスはそれに対して、犬っころにあげるパンはない、と断るが、その異教徒は犬でもテーブルから落ちたパンくずくらいは食べても良いはずですと返す。イエスはその回答を気に入ってその異教徒を救う。
これは機知の問答に異教徒がクリアしたことを意味する。機知を語り、理解した二人の人間は、フロイト『機知』を援用すれば類似した無意識を持つものであり、傾向性において同類である。ラカンはこれを読解して、機知を共有する二人の主体の間には関係が結ばれると考える。
悪魔に対するイエスの回答はつまりは上手いことを言った、ということにもなるのかもしれないが、それはあまり面白くない。
それから詩篇を引用した悪魔の問いかけは、親鸞の造悪説にもつながると思う。弥陀の本願によってどうせ救われるなら、悪人こそが救われるというなら、すすんで悪をなしたっていいのだろう?という説である。神が救ってくれるなら、崖から飛び降りたっていいんだろう?ということである。親鸞は『歎異抄』の中では、医者がいるからと言って敢えて毒を好むべからず、ということを言っている。また、業縁がなければ殺そうと思っても人一人殺せないのであり、また殺すまいと思っても業縁があれば1000人でも殺してしまうのだ、だからすすんで悪をなすなんていう自力は存在しないのだ、とも言う。
イエスの回答と親鸞の回答はどんなふうに異なるのだろうか。「敢えて毒を好むべからず」は「神を試してはならない」とも近い感じがするが、微妙なニュアンスの違いはある。前者は常識感覚に訴えるものであり、後者は吉本の言葉で言えば倫理性である。親鸞の回答はまた別に『末燈鈔』19に詳しくあるらしいので、明日図書館に行った時に確認してみる。
現実から離脱して人間の「心情」の世界へ、と吉本はいうが、正確には心情というよりもこれが「言語」なのではないかと思う。その存在が本質的によるべないという性質を持つ人間が、現実の中で「象徴」の世界を持つ。人間が恐ろしい自然=神と直面し屹立するところには、「言語」という逃げ道かつシェルターであるようなものが必要になる。こうして人間はどうにもならない現実から遊離したみずからの自由を獲得する。
だがイエスは徹頭徹尾旧約聖書の予言を体現して生きて死んでいく。そこに恣意性というような意味での自由はない。人間が宗教的な意味で自由になる、精神の中の無限性に至るというのは、たぶん現実自然とは独立の言語の決定論=運命論に身を投げるということにあるのだと思う。つまり自然の決定論と言語の決定論というのがあって、その調和を拒絶したときに、自然の決定論から徹底的に距離を置くことがそのまま言語の決定論に完全に浸透されることを意味してしまうのかもしれない。自然性から距離を置くというところに、宗教実践における禁欲の意義がある。
十字架の聖ヨハネ、モーリス・レーナルト、レヴィ=ストロース、ラカン
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