今日は朝からすっきり動けた。昨日まで数日間やる気が起きなくて不安だった。神秘主義論文をおおよそ書き上げて、夕方友達とお茶して、夜はフッサール『論理学研究』の読書会。
電子ピアノが家に届いたので、Morelenbaum+坂本龍一の「As Praias Desertas」を練習。それから家から持ってきたEugene Recordの『The Eugene Record』をかけてみたりする。
吉本隆明の親鸞論をほぼ日で聴いた。たしかに福音書的な思想に近い感じがする。帰りに古本屋で買った『歎異抄』をお風呂の中で読む。親鸞は「作善」すらも自力が混ざっているからダメだという。善いことをしようという意志すらも否定する。それは多分、善いことも悪いことも全ては他力なのであって、機縁がなければ何もできないのであって、自力で善いことをしようなんていうのは全然ダメなのだ、ということなのだと思う。
称名念仏の一行に往生の手段を限定するというのは、そういう方向性を取らせるための手段であるとも思う。仏の名前を唱えるということに意味があるというよりは(もちろん絶対他力のためにはそこに意味がある、それだけに意味があると信じなければならないわけだが)、そのほかの様々な修行、多種多様の修行実践によって往生できるなどという考え自体が自力を混入させてしまうからなのではないか。最後に選ばれたのが称名念仏になったことに必然性があるのかよく分からないが、言ってしまえばそれは歴史的偶然であって、要するに道のりがただ一つだということにするのが重要なのではないかと思った。
善も悪も他力。自分が往生するか否かも他力。だから吉本が強調するように、親鸞は念仏を唱えることによって往生できるかどうかは「不存知」であるとする。知ったこっちゃない。念仏を唱えることが善で、往生できることだと自覚してそれを「作善」するのは結局自力なのだと思う。
ただなんというか、たしかに親鸞はキリスト教っぽいのだが、そういう究極の信仰の姿を考えるというのはどうなんだろうか。つまり、そこに至るまでの、信仰に至るまでのワンクッションツークッションみたいなことは考えないのか。考えない、とも思う。例えばある種の別行を行うことが最終的には念仏一行に辿り着く道のりになり得るとする。だから最初からは一行に絞らず、別行を許容し、最終的に念仏一行を悟ればOKだという立場があり得るとする。しかし念仏一行に向かう自力というのを認めることと、絶対他力とは両立しない。ここまでは自力OKで、ここからは絶対他力に転換する、などというのは両立しない。全ては他力なのである。
絶対他力というのを神による世界の決定性などと考えると、しかし西洋哲学においては「意志」をはじめとして自由や偶然が許容される領域が設定されてきた。たとえば一番わかりやすいのは、自分以外の全てのものは必然で決定されているが、自分の心のうちだけは自由である程度の融通がきく、など。
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