2025/1/17

マタイ福音書に「ぶどう園の労働者」の喩えというのがある。ある家の主人が人を雇ってぶどう園で働かせた。賃金は一日につき1デナリオン。労働者の中には最初から働き通した者もいれば、昼頃夕方ごろから働き始めた者もいた。しかし主人は、最後に働き始めた人から順に全員に1デナリオンを支払った。一番最初に指示を受けて働き始めていた人たちは自分たちの方がより多く賃金をもらえると思っていたので、不平を言った。すると主人は、そもそも賃金は1デナリオンと最初から言っていたのだし、自分の持ち物をどうしようと自分の勝手だ、と言い張った。イエスはこの譬えによって、天の国の到来においては「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」と説明する(マタイ, 20, 1-16)。

親鸞の「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」ではないけれども、福音書にはこうした不平等にも平等にも思える思想が度々語られる。というのは、たしかに賃金(要するに神の国における救済と永遠の生命)が等しく配られるという意味では平等だが、労働時間あたりの賃金というところで見れば不平等である。自分の正直な感覚で言えば、やっぱり不平等に感じる。もし自分がその一日の最初から働いていた労働者だったら、後からやってきて1〜2時間働いただけのヤツが同じ賃金を受け取ることに不満を感じる。それは僕に限らずほとんどの人がそう思うだろうし、人間の一般的な感覚というのはそういうメカニズムになっているだろうとも思う。

でも、だからこそ、聖書の思想は本物だ、と感じる。そうこなくっちゃ、と感じる。読んだときのこの意味わからなさというか、それこそ苦難の感覚。これが常識的なことしか言っていなかったらつまらない。

この不平等は、自然が人間に対して与える大きな平等の主観的表象であるとも思う。どんな善人でも悪人でも、長時間働いた人も短時間しか働かなかった人も、等しく1デナリオンを受け取る。同様に、自然の力によって皆が等しく被害を受ける。ヨブのように義人であってもたくさんの酷い目にあう人生を送るし、悪人であってもいい思いをし続ける。

だが他方で福音書では、信仰を持てば救われるとされる。信仰を持って願えばそれがその通りになるとされる。あるいはその反対に、神に背くようなことをすると地獄に落とされる。このような応報的な言説もある。こちらの方が一般的には人々に受け入れられやすいだろう。でも僕としてはあまり面白くない。こういう部分は後から付け加えられたのかな、とか、人々を導くための方便かなと考える。

以上のように言うのも、吉本隆明のヨブ記論とマルコ論をほぼ日で聴いていたので、色々考えたからだ。面白いことをたくさん話していた。吉本はキェルケゴール『反復』のヨブ記解釈を強くとって、ヨブがどんな苦難に際しても自分は潔白だという主張を変えなかったことを、自然の脅威に直面した人間を代表する立派な人物だ、と評価する(ヨブの頑固さについては反対に、ヨブが結局は神強制をしているちんけなやつだ、という解釈もあると思う)。それからマルコ伝については、共同体(血族)からも仲間や友達からも裏切られ、信じることができず、最後に十字架にかけられた時に自分自身を信じることもできなかったイエスを描くということ、人間のそういう姿を描くというのは思想として大変偉大なことだ、と語っていた。吉本は福音書を一つの「思想」として読んだ上で、それを最高度に高く評価している。

吉本は福音書における「奇跡」を「隠喩(メタファー)」という点から捉えようとする。彼の定義によれば隠喩とは、全く別のものを結びつける言語使用であり、そのこと自体が言語における奇跡なのだ、とする。奇跡が本当に起こったわけがない、だが奇跡というものは聖書の「言葉」において起こっているのだ、というわけである。そういうふうにして、聖書における「言葉」の重要性、「言葉」を信じるということについて話していた。

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