2025/1/14

十字架の聖ヨハネ『暗夜』にこんな一節がある。

「窓を通して入って来る太陽の光線を見るとき、それが純粋で、ほこりが入っていなければいないほど、ますます明るくないように見える。かえって、空中にほこりやゴミがあればあるほど、その光は、より輝かしく目に映る。そのわけは、見られるものは光そのものではなく、光は、光が襲う他のものが見られるための媒介にすぎないからである。そしてそのとき、光は、また他のものの中に起こす反射によって見られるが、もしも反射を起こさなかったなら、光も、他のものも、ともに見られないであろう。同様に、太陽の光線がある部屋の窓から入って、その部屋を横切り、反対側の窓から出たとする。そのとき、この光線が途中何物にもぶつからず、空中にも反射すべき微粒子がなかったとすれば、その部屋は前よりも多くの光に満たされるわけでもなく、また、その光線も目には映らないであろう。それどころではなく、注意深く観察してみると、光線の通り道はより一層暗くなっているのである。というのも、この光線は、他の光を圧倒し、暗くしてしまうからである。しかも、この光線自身は目に見えないからである。 これは、前にも言ったとおり、それが反射を引き起こすような目に見える対象が、何一つないからである。」(『暗夜』、ドン・ボスコ社、p. 172-3)

魂の「暗夜」とは、魂が神との合一に至る過程で被る苦しみのことである。十字架の聖ヨハネは、上記引用のチンダル現象のような物理化学現象を喩えに引いて、神の神的な光は、それがちり一つない純粋な光であるが故に闇である、と語る。これを逆から見れば、「暗夜」とは神の光を受けている状態がゆえに生じることなのだということになる。

暗闇であるのは光だからである。十字架の聖ヨハネの信仰は、このような身も蓋もない反転のロジックに支えられている。カルメル山図、山頂へ向かう道に記された「nada、nada、nada、nada、nada、nada(無、無、無、無、無、無)」。全てが無になったときにこそ全てがある、全てが与えられることになる。記号の意味システムがほとんど作動していない。ある記号は、その反対物として解釈されてしまう。

しかし十字架の聖ヨハネの引き受けとは、そういうことだったのだと思う。祈りや善行に対する報酬などない。苦しみは終わらない。だが、この苦しみこそが恵みなのだ、というところまで突き抜ける。

去年の後半を通じて、じっと忍耐すること、ただ働いて捧げることを学んだ。それが身を結んで嬉しくなることもあった。自分の努力が報われた感じがした。

ただ、十字架の聖ヨハネはこんなことも言っている。

「〔観想の夜を通り抜けた後の内的な平和と静けさに比べれば〕実際、今までもっていた平和は不完全だらけであったから、本当の平和ではなかった。ただその霊魂にとっては平和と見えただけである。というのも、霊魂は自分の思うままにできたことによって、それが平和と思っていたからである。これを二重の平和というのは、霊魂は、自分が霊的な豊かさで満たされているのに気づき、すでに感覚の平和と霊の平和とを獲得したと思ったからである。しかし、この感覚と霊の平和は、私が言うように、まだ不完全なものである。したがって、霊魂は、まず第一にこの平和において浄められ、その平和を乱され、そこから離れることが必要である。」(p. 183-184)

結局、そうやって忍耐と労働によって得た平和というのは「自分の思うままにできた」ことによってそう思っていただけの平和に過ぎない。あるいは、

「この愛の燃焼は、霊魂が常に感じるものではなく、ただ観想がそれほど激しく霊魂を襲わないときにのみ感じられるものである。というのも、このようなとき、霊魂はそこに行われている業を見る余裕をもつだけでなく、それを楽しむ余裕さえもち、それが霊魂に示されるからである。それは、行われている作業がいくらか見えるように、作業の手を休め、炉から鉄を引き出すようである。それで、このときは、霊魂には、作業の進行中には見ることのできなかった善を自分自身の中に見るだけの余裕があるのである。それはちょうど、炎が著をなめるのを止めたとき、薪がどれだけ燃えたかがわかるだけの余裕を生じるのと同じことである。」(p. 193)

長い長い暗夜の中のちょっとしたインターバルに過ぎない。

自分でもわかる。慎ましく生きたことによる見返りへの、その慎ましさによって隠蔽された(したがって狡猾な)強欲さ。好循環を作り出そうとする自分に対するナルシスティックな全能感。

多分、これではダメだと思う。何もかもうまく行かなくても、暗夜が何年も続いたとしても、それを良しとして引き受けなければならない。暗夜の闇それ自体が光であること、自分自身の矮小さのゆえにその光によって目を眩まされているから暗夜であることを理解しなければならない。

自分がこの後どうなって、最後にどう死ぬか分からないけど、すごく惨めで不幸な死に方をするかもしれない。さっき母親と、何十年も懸命に生きてきた最期が闇バイト強盗による撲殺だというのはやるせないよねという話をした。でも僕自身がそういう死に方をするかもしれない。この後の人生を懸命に生きて、たくさんの人に尽くして働いてみんなを喜ばせた結果、それでも何か不幸なことがあって、最終的に、誰からも愛されず、手を取られず、それどころか憎まれて虐げられて、どこかで野垂れ死ぬかもしれない。それでもその暗夜を歩いていけるか。Tout est grâceと言って死ねるか。

終生義人として生きてカルメル会の改革に尽力し、それなのに同じ修道士から虐げられて暗い小部屋に九ヶ月も幽閉され、最後に病に倒れてから送られた病院では敵対する修道士に酷い扱いを受けて死んだ十字架の聖ヨハネ。

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