2025/1/12

バンヴェニスト『一般言語学の諸問題』、「名詞文についてLa phrase nominale」(初出1950)。印欧語ではしばしば動詞や繫辞を欠いた「名詞文」がみられる。バンヴェニストはこの論文で、なぜ「名詞文」が成立しうるのかを考察している。

名詞と動詞を「対象」と「過程」として分類する旧来の解釈を退けて、バンヴェニストはむしろ、統辞法における動詞の機能に目を向ける。「われわれは動詞を、完結した平叙的言表の構成に不可欠な要素と定義したい」(p. 148)。

つまり、ある分が平叙文として成立するためには動詞が必要であり、動詞は文を完結させて平叙化させる機能を持っているのである。平叙文というのは、「それが平叙文であるというまさにそのことによって、言表を別の次元、すなわち事実性の次元に関係づける作用を伴っている。言表の構成部分を一つにまとめる文法的関係に、さらに一つの〈…ということがあるのだ!〉が含みとして加わり、これが言語としての配列を事実性の体系に結びつけるわけである」(p. 148)。

このように動詞を「平叙化する機能」として再定義することによって、名詞文における名詞もまた動詞的平叙化機能を持っていると解釈でき、名詞文が特定の動詞を持たずに成立することが理解される。したがって、名詞文は動詞や繫辞を欠いた文と考えることはできない。「まず明らかに、名詞文は、動詞が取り除かれたものだとはみなせなくなるだろう。名詞文は、動詞による言表のいかなるものにも劣らず完全である。また名詞文を、ゼロ繫辞の文と考えることもできまい」(p. 153)。バンヴェニストによれば、ラテン語「omnis homo-mortalis(人はすべて死すべきものである)」は、「omnis homo mortalis est」のゼロ繫辞ではない

一方、シャルル・バイイは『一般言語学とフランス言語学』第252節で次のようにいっている。

「ロシア語は直説法現在のすべての人称において「ある」のゼロ繋辞をもつ.これを証明する二連の同種範的対等がある。現在そのものにおいても、弊辞はそれが語棄化されるや否や外顕化する:dom nov「家は新しい」という、しかし dom stanovits’a, kajets’a novim1)「家は新しくなる、新しくみえる」。 いっぽう、繋辞「ある」そのものが他のすべての時称と叙法において義務的である(bil, bidet, bil bi, bud”「あった、あるだろう、あるならば、あれ」.それゆえこのばあいと、ラテン語の Paulus aeger 型の黙解された繫辞とを混同してはならない。とはいえ両者とも「名詞文」(phrase nominale)の存在の問題を提起する。それの存在しうるのは繋辞「ある」を知らない言語にかぎられるとみてさし支えない;そのほかの場所ではどこでも,とりわけインドヨーロッパ 共通語やインドヨーロッパ諸語にあっては、「名詞文」は動詞文のひとつの内顕的形式にほかならない(ということは、なにも繋辞のない文が他のものと<文体的にことなることを妨げはしない).」

この記述はいまいちよくわからない。バンヴェニストとバイイの間に「名詞文」をめぐる立場の違いがあるのか。とりあえず並置しておく。

———

思想塾論文進捗。ラカンのセミネール1、3、14、20巻における十字架の聖ヨハネへの言及を収集。一貫して高評価。しかしアンゲリウス・シレジウスについての評価は前期(1巻)と後期(20巻)で変わっているように見える。最初、ラカンはシレジウスの詩を講釈したりして、十字架の聖ヨハネよりも響くところがあると言っていたのが、セミネール20巻になると、「すべてではない」の女性側にいけなかった人物として、やや劣位に置かれている。

More Posts

コメントを残す