2025/1/6

年末年始が終わって家に帰ってきて、疲れているのか、精神的にも閉じ籠っている感じがする。連絡もあまり返せていない。でもなんというか、誰かからの連絡を待っているというか、なんか来ねえかな、みたいな地味な退屈感がある。雨が降って寒くて、どんよりしている。でも久しぶりの雨である。

喉の調子が微妙に良くないなと思っていたら、朝起きた時に喉がガサガサしていたので、そのまま昼ごろまで寝たら少し回復した。が、ほんの少しまだガサつきがある。

昨日の夜中夜更かししながらバリュジの『十字架の聖ヨハネと神秘経験の問題』をGPTで翻訳しながら読んでいて、ラカンと神秘主義に関する論文(まずはレポート)のおおよその構想も立ち上がってきた。バリュジの本はかなり分厚いので、序文と、自分の問題系に関わりそうな部分だけ見抜きながら確認した。そうすると、バリュジが聖ヨハネの象徴主義的な解釈者と言われる所以や、「象徴」というものに関するバリュジの考え方がかなりわかってきた。バリュジの「象徴」観はたしかにラカンにそっくり(というかラカンがバリュジから影響を受けた)で、ハイデガー的でもあると思う。バリュジは象徴とアレゴリー(寓話)を区別し、アレゴリーが教義的、教育的、説明的であるのに対して、象徴は何かを説明するものではない、とする。したがって本物の神秘家によって生み出された「純粋象徴」としての言葉は、その体験を記号として「翻訳」したものではなく、体験と不可分に結びついている。ある神秘体験があって、神秘家はそれを説明するために書くのではない。おそらく不可知の神秘体験はあるのだろうが…。「もはや“象徴による体験の翻訳”ではなく、文字通りの意味での“象徴的体験expérience symbolique”があるのだ」(Baruzzi, p. 335)。だから聖ヨハネの詩が理解し難いのは全く問題ない。聖ヨハネ自身もその詩が何か明瞭に理解されるとは考えていないし、そもそも彼は神秘体験を重視しない。

ただもちろん、詩作の言葉がその体験の翻訳でないとすると、それは一体なんなのか、どういうことなのか、体験と言葉の間には、記号的関係でないとするとどのような関係があるのか、というのは問題である。また、詩人と神秘家の違いがあるのかということもある。

ラカンは「象徴、その宗教的機能」の中で、聖ヨハネの言語表現は「象徴からの脱出の象徴(symboles d’évasion du symbole)」[MIN 82-83]であると述べる。言葉を使って言葉に言い表せないものに向かう、ということを、確かにこのように表現できる。

またラカンは「信仰」がなんなのかということについて、その「契約pacte」的な側面を強調する。このテクスト「象徴、その宗教的機能」は修論でレーナルトへの言及があるものとして扱ったこともあり、そこではパロールの(人類学的な意味も含んだ)関係締結的機能が反映されている。そう考えると、ラカンは「象徴からの脱出の象徴(symboles d’évasion du symbole)」というのを、主体が自我を脱ぎ捨てて新たな関係を締結する、つまり「関係からの脱出の関係」ともいうべき「契約」を結ぶ、充溢したパロールとして考えている、と解釈することができるかもしれない。

とりあえずそういう方向で読み進める。ラカンはその後のミルチャ・エリアーデとの討論で、十字架の聖ヨハネの言葉が「言語(ランガージュ)」であるというのは賛同するが、ラカンの説明では「パロール」と言われていた、ランガージュとパロールは別のものではないか、とエリアーデに突っ込まれている。確かにそこは気になるので、この先も読んでみる。

論の構成としては、まず序論でフーコーの『主体の解釈学』でラカンの精神分析がキリスト教神秘主義的な実践の伝統にあると言われていた部分から始めて、先行研究がどうなっているのかを概観。次にバリュジによる聖ヨハネ解釈と象徴主義を見る。その次にラカンによる聖ヨハネへの言及の収集と、「象徴、そしてその宗教的機能」の読解。とりあえずここまででおおよそ。時間があったらミシェル・ド・セルトーによる解釈を最後に整理したい。これはまず今月末にレポートとして提出し、その後もし可能であれば先生からのフィードバックをもらい、6月までに日本ラカン協会に査読論文として応募しようかと考えている。

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