2024/12/24

日仏哲学会論文、1万字手前くらいまでいった。あとは第1節の先行研究紹介を充実させて、最後にシノプシスと結論を書けば。ほぼ終わり。明日は久しぶりにOFF日なので、もう明日終わらせるくらいのノリでいく。そろそろJASSO奨学金の返還免除の情報が出る頃だと思うので、そちらも待機。

この時期、だいたいいつもクリスチャンの叔母の家でクリスマス・パーティがあったのだが、今年はとうとう観想会に参加してくるとのことで無いらしい。クリスマスは祈りに捧げると。なかなかに頑張っている。修道女か、ベギンのような。僕も今日は十字架の聖ヨハネ『暗夜』を少し読んだ。「暗夜」は二種類あり、感覚の夜と霊魂の夜がある。感覚の夜は身体に紐づいた感覚における苦悩、無明の夜で、初心者〜中級者が乗り越えるべきものとされる。しかし、感覚の夜を乗り越えても神との愛の一致には至らない。神との一致に相応しい霊魂になるためには、感覚の夜よりも激烈な霊魂の夜を潜り抜けなければならない。そして本当の「暗夜」とはこの霊魂の夜のことであり、感覚の夜はただ霊魂の夜に入るための準備段階に過ぎなかったことが明らかになる。

感覚の夜に入るためにはそもそも祈りの生活に味わいを見出していることが必要なので、この時点で中級者くらいにはなっていなければならない。感覚の夜を越え、神への祈りに対して感覚的な味わいをもはや必要としなくなっても、霊魂はいまだ神との一致に相応しい状態とはなっていない。この時点ですでに上級者といえ、神秘体験も得て感覚的な欲求もほとんど卒業しているが、霊魂の夜をくぐり抜けていない不完全性のゆえに、時々は苦悩に苛まれることになる。したがって、一部のすぐれた者はさらに霊魂の夜に入ることによって、徹底した浄化を被ることになるのだという。

神秘主義の授業は昨日、アビラのテレサに入り、来年の多分ほとんど最終回あたりで十字架の聖ヨハネを扱うというペースだと思う。年が明けたらラカンと十字架の聖ヨハネに関するレポートをかき、それをもとに論文にしてラカン協会に応募しようかなと構想中。使えそうな論文はすでに目をつけてある。ラカンのテクストとしては、ミルチャ・エリアーデとの対談も収録されている「象徴、その宗教的機能」(1954)がある。またセミネール2、3巻での言及も収集。前期ラカンにおける神秘主義を考えるために重要なのはアレクサンドル・コイレ、アンリ・ドラクロワ、ジャン・バリュジであるが、少し前に出た平賀裕貴さんの『アンリ・ベルクソンの神秘主義』に、バリュジやドラクロワに関する(日本語の研究としては)貴重な研究が入っているので、それを参照。

主にはバリュジの十字架の聖ヨハネ論を見て、ラカンによる十字架の聖ヨハネ論を見ることで両者の異同を確認。言葉によって言葉を超える、というのはどういうことなのか。それがラカンの理論の中にどう位置付けられているのか。さらにミシェル・ド・セルトーへ。ちなみに僕が知っている限りだと、ラカンが言及する神秘主義者には、アビラの聖テレサ(聖テレジア)、アンゲリウス・シレジウスもいる。ラカンは詩人や神秘主義者たちと、シュレーバー(精神病者)の間に明確なラインを引いている。まあ多分象徴的なものがあるかないかという違いなんだと思うが、それは実際に書かれたものの水準でも言えるかというのは思う。30年代のラカンは「スタイルの問題と経験の妄想的形態に関する精神医学的概念」(1933)で、精神病者のエクリチュールが芸術に新たな風を吹き込む、みたいな話をしていた。

1月中旬にはちくま学芸文庫から十字架の聖ヨハネの『カルメル山登攀』が出る。黄色いカバーのドン・ボスコ社版はプレミアがついていたのでまだ手に入れていなかった。なんというタイミング。発売したら即入手したい。いま検索したら表紙のビジュアルが上がっていた。うん、いい感じ。

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